相馬市・南相馬市の製鉄遺跡群の地図
福島県では阿武隈高原から浜通り地方を中心に600か所を超える古代から近世までの製鉄遺蹟が確認され 特に浜通り北部には200か所以上の製鉄遺跡が確認されていて「古代製鉄のメッカ」とも称されている 今でも鹿島町の烏崎の砂浜は昔程ではないが砂鉄で黒みがかっています 特に新地町武井(ブイ)地区の周辺には黒木田遺跡三貫地遺跡があり宇多郡衙跡とか鍛冶工人集落とか推定され 又南相馬市金沢地区泉廃寺跡行方郡衙跡とされ行方軍団が駐屯していた所である その中間にある国史跡真野古墳群は製鉄製造による武器・農具・食糧の国府多賀城を支える対蝦夷戦争の物的・人的供給地として成長した地元豪族の墓地群であろう 例えば神護景雲3年宇多郡人外正六位上勲十等吉弥候部石麻呂が上毛野陸奥公を賜姓され 同じく宇多郡人外正六位下吉弥部文知も賜姓された 行方郡人外正六位下大伴部三田他四名大伴行方連を 更に行方郡外正七位下毛野公田主等四人朝臣を賜姓され又延暦16年には行方郡人外少初位上大伴部兄人等が大伴行方連を賜姓されているのはその証でしょう 
右 日本武尊とまつろわぬ賊徒蝦夷の戦場の地が 御刀神社
この地は常陸鹿島神宮の苗裔を以て鹿島と名乗り第12代景行天皇の御世日本武尊の東征の折には鹿島御子神社に武運長久を祈願した その霊験により忽ち賊徒蝦夷を征服したという(神社栞) 激しい戦のあった所が御刀(みと)神社の地であるという 社名からも想像されますね 祭神は素盞鳴尊(スサノウノミコト)で日本武尊東征の折勧請されたという延喜式内社で延喜5年には国家鎮護の神に指定された この素盞鳴尊は御存知のように暴れん坊の為に高天原を追い出され出雲の地に降り立った神様だがそこでの国から毎年やってくる大蛇に最後の娘クシナダ姫を泣く泣く献上する老夫婦を助けるために姫との結婚を条件にやまたの大蛇を退治したのは有名な神話だ➡右へ  

(参考)律令国家の対蝦夷政策(相馬の製鉄遺跡群) 飯村均著《㈱新泉社》 
➡そして見事退治してクシナダ姫と結婚できた新婚の喜びを詠んだ歌が有名な 
八雲立つ 出雲八重垣 
妻ごみに 八重垣つくる 
その八重垣を

暴れん坊もよほど嬉しかったに違いない そして生まれたのが大黒様(大国主命)なのです 3.11大津波で廻りの建物はすべて流されたが御神域の銀杏と杉の木だけはびくともせず又左にある氏子のお宅も1階は浸水したが建物は破壊されずこの杉によって守られたと話していた 
 
 男山八幡神社
なぜかイケメンで強そうな名の男山八幡宮は陸奥蝦夷の反乱から国家鎮護のため京都男山に鎮座する石山八幡を勧請したもので何と仁壽2年(854)従5位下藤原朝臣興世なのだ 神主さんの話によると彼は当初陸奥守として鹿島に赴任したが後日出羽守としてして羽州に転じた 彼は秋田の蝦夷の反乱(元慶の乱)に遭遇して抑えきれず敗北し結局小野春風による平定を待つことになる その後貞観の初め頃彼は隠遁生活のためこの地鹿島の寺内地に移り住んだという この男山八幡も鹿島御子や御刀神社と同じく対蝦夷征伐の国家鎮護の神社なのです いずれにしろここ鹿島の地は歴史上興味ある地である


真野の萱原 其の2
     3.11大津波で社殿流出してしまった延喜式内社御刀(みと)神社  仮設の御刀社殿奉納刀箱がある
  刀は氏子代表宅にあり毎年の神楽には刀を持って舞うのだそうです そしてここの住所が鹿島区北右田字釼宮(つるぎのみや)なので
日本武尊と蝦夷の戦に関わるので刀の由来そはの為かも知れない