松ヶ浦に 騒ゑ群ら立ち 真人言 思ほすなもろ わが思ほのすも       万葉集巻14-3574
陸奥の 宇多の尾浜の 片背貝 合せても見む 伊勢の爪白                  西行
松ヶ浦の とまりの磯と きくものを 名にもさはらず かへる波かな     夫木和歌集 従二位行能卿
陸奥の 宇多の浜辺に このはがた なからん冬の 風をうらまじ         海人手古良集 師氏
松ヶ浦 泊が磯と きくものを 名にもさわらず かへる波かな              藤原 行能

福島県は日本では岩手県に次いで2番目に広い県である。そのため会津地方、中通り、浜通りの3地方に分けられる。阿武隈山脈と太平洋に挟まれた南北に長く平野の少ない浜通の海岸線は、単調であり見るべき景色や良好なる湊も少ない中で、この相馬の松川浦と原釜漁港は県内でも日本百景の一つに数えられている景勝の地である。万葉集に詠まれたころの古代には浮田と呼ばれ中世以降宇多と呼ばれる。近くには笠女郎の万葉集の歌で有名な真野の萱原やそのお隣には行方と呼ばれ当時日本一の製鉄所群で有名な万葉集の真吹の里の歌がある。中通りを通る官道が東山道であるのに対し浜通りを通るのが東海道(浜街道)と呼ばれていずれも遠の朝廷の多賀城を目指している。このように現在でも比較的交通の不便な相馬地方に3つもの万葉集の歌がある事は、1300年前年の存在感は現在の比ではない証だと思う。尚且つ900年前の西行の片背貝の歌と、現在も東北有数のあさりとホッキ貝の潮干狩りの地である事を重ね合わせると、相馬野馬追いだけでなく歌枕の地としての存在感も十分だと思うのだが地元ではその意識は少ない。 何故かここ松川浦岩子の湊に隻眼隻手の剣豪あの丹下左膳生誕の碑が立っているのはご愛嬌である『姓は丹下 名は左膳!』の名台詞で団塊の世代以前の人には鞍馬天狗と共に懐かしい丹下左膳は何とここ相馬中村藩六万石の家臣だったのです。林不忘原作・大河内伝次郎や大友柳太郎主演によるこの作品は乾雲坤竜の巻・こけ猿の壷の巻・日光の巻の三部作からなる。殊に乾雲と坤竜の二刀の名刀は離れ離れになると互いに一方を求めて夜泣きをし一緒になるまでは血を見ずにはいられないと言う伝説の妖刀を巡り左膳を中心に剣客達が入り乱れての争奪戦を繰り広げる粗筋だ。時は八代将軍徳川吉宗の時代である。鞍馬天狗と共に僕等少年時代の懐かしいヒーローが相馬中村藩士だったとは知らなかった。 右下

万葉歌碑
永遠のヒーロー  丹下左膳の碑
 相馬市岩の子長谷地
今も潮干狩りと海苔と海水浴で有名な松川浦   ➡相馬潘と言えば余り知られてはないが小説の神様と呼ばれる志賀直哉の家系も相馬潘物頭・普請奉行・家老と代々要職勤めた家柄である。 彼の祖父直道は幕末の農政家二宮尊徳の高弟として知られる。 彼は廃藩置県で他の相馬潘士と共に双葉町に住んでいるが後に東京麹町の相馬藩邸に住むことになる。直哉は銀行員直温と母銀の次男として宮城県石巻市で生まれ後に学習院初等科に入学している。歴史とは面白い物です 
 (平成18年10月10日)(参考 福島県の不思議 新人物往来社・ 双葉町史 双葉町)
松ヶ浦(松川浦)