松ヶ浦は相馬であり相馬と云えば野馬追いである。 陸奥福島を代表する夏祭りであるが 相馬氏は元々千葉下総の頭領で古代も末期の939年坂東8カ国でクーデターを起こし新天皇を宣言して京都の朱雀本天皇を仰天させたあの事件の平将門の末裔である。将門も少年時代下総の相馬が原で過ごしていたので相馬小次郎とも呼ばれていた。古代 陸奥蝦夷と接していた関八州の人々は常に蝦夷征伐のための兵役や食料調達の犠牲を強いられ、中央政府に不満を抱いていたので将門人気は抜群であったようだ。天慶の乱後将門に唯一好意的だった叔父の良文が将門の死後その娘を引き取って育て長男忠頼の妻にして将門の血筋を残した 平氏はその後千葉を名乗るのである 源頼朝の平家打倒の挙兵に力を貸した平(千葉)常胤はその子師常の代に相馬氏を名乗るが師常が1189年今度は頼朝の平泉征伐で軍功があり、この宇多・行方郷を賜ったのです。そして頼朝死後北条氏の時代になり 政情不安から師常から5代目の胤村の五男相馬師胤が1323年不在領地であった行方(現原町市)に下向(奥州相馬氏の発祥)したのが始まりである。何と家臣83騎と数名の百姓だけだったという。坂東平氏は元々牧場地帯の牧人の妙見信仰(北極星 北斗七星を神格化) が厚くそれが現在の野馬追いとして綿々と受け継がれているのです。将門の乱も在地住民の反政府の代弁であり 古代から中世への転換期の事件だったに違いない。 左端 國重要文化財相馬中村妙見神社 隣り合う仙台藩と相馬藩は諍いが絶なかったがが藩主伊達政宗は相馬藩に対して『我 敵を討ってほとんど意に任せざるなし ひとり相馬は小敵といえど服し難し」と述べていると云う 慶長16年(1611)相馬利胤が築城し小高城から移り明治まで260年にわたり相馬氏の居城となる

松ヶ浦(松川浦)

 
其の2
 


太田・中村・小高が相馬3妙見神社である元享3年(1323)重胤が行方郷に入部以来一度も国替えせずに明治維新を迎えた藩は極めて珍しいのです
  中村城(馬陵城)大手門から出陣する総大将  相馬野馬追は国重要無形民族文化財である 東北六大夏祭りの野馬追いの出陣 国指定重要文化財涼が岡八幡神社 相馬市
平成24年には本殿・幣殿・拝殿等4棟国重要文化財に指定されたので知名度は➡
上がるでしょう凡そ今より1200年前の大同年間創建と伝え当時若宮八幡と云う古い祠があったという後醍醐天皇の折北畠顕家を陸奥守に任じ建武2年その武将白河城主結城宗広に宇陀の庄を与えその祠後に八幡宮を建立した(神社栞)
吹く風に 渋茶匂へり 陸奥の

所は宇多の 萱の中らに 源 頼義 
前9年の役の帰り道彼はここ相馬の涼lヵ岡八幡(左写真)に立ち寄り老婆の出したお茶で一服し上の歌を詠んだという 左の写真がその神社だがそこの宮司の奥さんはそのことについてはご存知なかったしその様な石碑も歌碑もない 近くのJA職員に尋ねても全く知らないと言う 尤も福島県の歴史散歩によると建武年間(1334~38)とあり前9年・後3年の役が1062~1083年では300年も後の創建だ 相馬では勿来の関ほど義家人気はないがこれも野馬追いというビッグイベントがあるお蔭だろ➡右へ 


➡勿体無い事ではある果たしてこの歌が頼義が詠んだか否か定かではない 
 
上 小高妙見神社 
原町太田の次の居城にあたる

このは日 野馬追いを飾る最後の日の野馬懸けの日だった 裸馬を素手で掴まえて小高神社に奉納する野馬縣けこそ野馬追いの原点と言う ここを浮舟城とも云います 相馬氏はここに12代270年本拠地とし一時原町の牛越城に移りながら慶長16年(1611)に現在の相馬中村馬陵城・中村神社を本拠とした

 行方郷から相馬郷発祥の地 原町太田妙見神社
 相馬氏は最初千葉からこの原町太田の地に根を下ろした(別所舘跡)
 師胤はここに3年留まりその後息子重胤と孫光胤に築かせた小高城に移る  ➡