子眉嶺神社
 
  山頂にある鹿狼山神社
  上 国指定史蹟新地貝塚附手長明神社跡の碑 現在は近くの二羽渡神社に合祀されている 昔鹿狼山に棲んでいた手長足長の明神が東の海まで手を伸ばして海の貝を採り食べた貝殻を捨ててできた伝説がある➡  松ケ浦 其の3 

➡大正13年以降東京帝国大学の調査により地表50cmの下に70cmの厚さの貝塚が発見されその下からも大量の特徴的土器が発掘されて新地式土器と命名されている その重要性から昭和5年には国指定史蹟になる 東北地方の縄文後期後半の標式遺蹟である

下  『伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に』と云う戯れ歌は福島県伊達市と相馬市の西部の市境にその碑がある  北部の宮城県伊具郡との境でも伊達氏と相馬氏の争いが絶えなかったが伊具郡丸森町にある相馬氏の金山城を天正9年(1581)僅か15歳の政宗が初陣を果たし勝利したのが宮城県伊具郡丸森町金山字鬼形である
 
  延喜式内社 子眉嶺神社 御祭神は豊受比賣之命 相馬郡新地町駒ヶ嶺
左上下 この神社は中々凄いのです 延喜式明神大社で人皇臺30代敏逹天皇の御子を祀るという その上に七不思議なる伝説がありその一つに鏡池の伝承があるのです 天皇の姫君豊受姫が都で駒と云う唐人との密通により伊勢の二見が浦から空船により流され当地の今神浜に漂着したのです この土地の豪族の糖塚権太夫に助けられこの地で出産したのです 然しその子が余りにも馬に似てるので権太夫は姫には見せなかったのです 然し姫がしきりに見たがるので姫を丘に上げ産児を抱いて池(鏡が池)に移った姿を姫に覗かせた これを見た姫は驚愕して嘆き悲しみそのまま寝込んでしまい亡くなってしまったという伝承があるのでうす 鏡が池の御神水は今も湧き出てるが池そのものは既に枯れ果てていた様だ 明神とは神々の中で特に霊験あらたなかる神社に対する称号でその中で更に優れた霊験を持つ神社が大社なのでしょう 大社は全国に200社前後しか無いらしい 因みに福島県に於ける明神大社は會津の伊佐須美・棚倉の馬場都々和気・八槻都々和気・福島市の東屋沼・原町の多珂・郡山の宇奈己呂和気・相馬の子眉嶺のみである➡右へ    鹿狼山頂からの新地町・相馬市遠望と太平洋 絶景です 特に正月初日の出の御来光は抜群だそうです
➡それにしても相馬はなぜその字の如くこうも馬だらけなのでしょうか 野馬追い・駒ヶ嶺・唐人の駒・馬面の産児等伝承が先なのか地名が馬の伝承を生んだのか・・・(参考 子眉嶺神社栞)