美夜自呂の 砂丘辺に立てる 貌が花 な咲き出でそね 隠めて偲はむ
                           万葉集巻15 3575 詠み人知らず

この可愛らしい歌は凡そ1300年前の信夫の里の北部にある宮代、瀬上辺りを詠んだ物だそうです。所在考証については地元の万葉研究家の佐藤輝子先生の「美夜自呂の歌考」に興味深く記載されておりますのでさておいて、我々素人が不思議に思うのはこの山深い地が何で砂丘(スカと読む)なんだ?、何で貌が花(ヒルガオ・浜ヒルガオの別名)なんだ?、とゆう事です。ここ信夫の里には海にまつわる歌枕の地が他に2つあります。「信夫の浦」と「阿武の松原」です。「浦」、「松原」、「砂丘」、「浜昼顔」と揃えばこれは完全に日本の典型的海の風景です。福島市史の信夫の浦の項に『浦は信達盆地の古い河跡湖の残存形態で、平安末期ころは伊達崎(だんざき)北部にあった葦が密生していた老衰湖か沼沢地であったろうと言い この河跡湖を信夫の里 信夫山 信夫の渡り等にならって新しい歌枕として採用したのは後鳥羽上皇を中心とする歌人グループで 都に持ち帰ったのは 夫に同行して信夫の浦を実見した讃岐だろう』と桑折町史の角田文衛氏の言葉として載せているのは興味深い推理ではある。伊達崎はここ宮代から3〜4km北部にあたる地だ。宮代、瀬上は福島市と伊達町の間にある町で 摺上川が阿武隈川注ぎ込む所です。そしてその向かい側が当時日本3大松原のひとつ阿武(逢う)の松原が見事に広がっていたのです。信夫の浦でも書いた様に阿武隈川に多数の川が流れ込んでいて丸で海の体をなしていたのでは?、と書きました。その一つ摺上川の白い砂が対岸の緑の松に映え海岸の砂丘に見えたと思うのです。そしてそこに咲いていた可憐な浜昼顔に心和ませられたのが印象深かったのではないでしょうか。然し地元ではこの地は殆ど知られていず源頼義、義家が約940年前に寄進した日枝神社山王様として今でも親しまれる。 そして芭蕉が信夫文知摺から飯坂への抜ける丁度その途中にこの神社はあるのです(平成14年2月25日)(参考 福島市史・ 桑折町史)

 上 手前阿武隈川に上から摺上川が注ぐ 左が福島市瀬上・宮代で左が伊達町 この辺が美夜自呂(宮代)だが砂丘は砂丘でもとても歌の面影はない 伊達まちの愛宕山からの風景  

下 最近は水量も減り砂丘どころか白いまぶしいい岩石だらけである
左 瀬上の渡しの碑 
当初この渡しはここより800mほど下流にある箱石の瀬にあった そこが瀬の上の名称を生んだ所である 近郷近在ことに向瀬上の人々にとっては瀬上町への買い物や小中学校への通学路として一日500人の利用者がありました平成7年(1995)8月まで存続していました 数ある阿武隈川の渡しで最後まで残ったのが瀬上の渡しである
 
美夜自呂の砂丘