宮代の山王様   源頼義・八幡太郎義家親子によって寄進された日枝神社 農神山王様として5月のお祭りは伝統がある 芭蕉はこの前の道を通り飯坂に向かった 寛延2年(1749)ここに17.000人の農民がここに集結して信達大一揆が発生した この一揆は朝日新聞で連載され映画化されるほど有名だったのです   右 旧月輪の渡し 現流域より東300mにある  
旧月の輪の碑から南数百mに縄文時代の宮畑遺跡があるこれも阿武隈川河畔とは無縁ではなかったでしょう 2500年〜4500年前の縄文中期から晩期の遺蹟で三内丸山遺蹟にも匹敵する重要遺蹟として平成15年には国指定遺蹟に登録されたのです 当時阿武隈川は現在より東寄りの阿武隈山脈に沿って流れていた
下中 六角石
ここ宮代一丁田には六角石なる石柱がある これはあの平泉の藤原清衡が奥大道に中尊寺を中心にして北は青森外が浜 南は福島白河の関まで1丁毎に黄金の傘卒塔婆を建てた その遺跡の一つと言う説もある  各地の一丁仏 一丁田の地名は平泉清衡の卒塔婆の名残かも知れない 

  
美夜自呂の砂丘 其の2
 




左 六角石
平野六角と云う地名にもなった
 隣のおじさんここは道路脇にあり触られたり撫でられしてすり減った 昔は仏様の彫り物があったようだ 飯坂に行くにはこの道しか道はなかったからね と話していた 宮代のそれと同一の
清衡の笠塔婆でしょうか?
 
 月の輪大橋 
芭蕉の頃は阿武隈川はずっと東の山麓沿いを流れていま
た 船前・古川等の地名がその名残をとどめます 芭蕉はその奥の細道で「月の輪の渡しを越えて、瀬上と云ふ宿に出づ 佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半ばかりに有り 飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに・・・」と書いている 彼は信夫文知摺から月の輪の渡しを越え瀬上・宮代を通り飯坂へ向かった 今や4車線の立派な月輪大橋となっている 
 現在の月の輪大橋にある芭蕉奥の細道の碑