吾妻山の由来は中々面白いのです。麓の福島信夫盆地には式内社が五つもあるのです。其の中でも吾妻山と深い関わりがるのが東屋(あずまや)沼神社と東屋國神社である。共に延喜式内社で特に前者は明神大社である。 吾妻山は一名東屋岳とか家形山呼ばれていたがその吾妻は東屋沼の東屋から来ているのは確かだ。沼の名が示すとおり山頂の一切経と家形山の間にある五色沼を御神体として山頂に鎮座していたのが東屋沼神でその国津神が東屋国神なのです。東屋とは『吾妻はや』の固有名詞化だと高橋富雄氏は其の著書に書いている。『吾妻はや』はあの英雄日本武尊の『吾妻はやの妻しのび伝説』を想像させるのです。彼が陸奥蝦夷東征の帰り日本書紀では碓井の峠・古事記では足柄の峠で遥か東の国を眺め『吾妻はや・・・(あぁ 我が妻よ)』と3度もため息をついたと言う故事に因むのです。三浦半島から房総半島へ渡航の折『走水』で暴風雨に遭い荒れた海を沈めるために愛妃弟橘姫が荒海に身を投じたのです。『走水』は現三浦半島鎌倉市観音崎辺りです。万葉集防人(北九州・対馬。壱岐の国境警備)の歌に
ひなぐもり 碓井の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘れえぬかも
(上野国防人)
足柄の 御坂に立して 袖ふらば 家なる妹は さやかに 見もかも
(武蔵國防人)
こは防人として九州筑紫國へ徴兵された坂東諸國の人達が峠の坂での望郷の『吾妻はや歌』なのです。同じく遥か陸奥国からも徴兵された防人や強制移住させられた蝦夷達が陸奥國最南端のこの地の2000m級の山を見て吾が妻や妹を偲び嘆いたのも無理からぬ事です。だから吾妻山の麓の盆地を偲ぶ・忍ぶ・信夫となり信夫郡となり其の中央に有る山が信夫山となったと推測するのも自然な事でしょう。上野國(『群馬県)に吾妻郡があり陸奥國(福島県)に信夫郡があるのは全く『吾妻を偲ぶ』の意で吾妻も信夫も全く同じな感情の意なである。調べてはいないが吾妻の地名はきっと東国・陸奥國に多いのではないでしょうか。 明神とは神の称号だがその中に大社・中社・小社があるが其の中で大社はその霊験が特に著しくあらたかなる神社を明神大社と呼ぶ。その中で著名なものでは奈良大和國の春日神社・京都山城國の上賀茂・下賀茂神社・大阪摂津國の住吉神社・茨城常陸國の鹿島神社・栃木下野國の日光二荒山神社・広島安芸國の厳島神社等があるがここ東屋沼神社も概観は兎も角霊験は同じ明神大社なのです。然し私はつい最近まで知りませんでしたし地元の人も近所の方々を除けば知る人は少ないのです。物思い山を調べるに当り初めて尋ねて見ましたがこれがあの明神大社と同格の霊験を有する神社なのかとその素朴さに少し驚いた。 吾妻の地名には坂東の國々や陸奥國の虐げられ蔑まされてきた歴史的事実が込められているのではないでしょうか。私の好きな万葉集防人の歌
今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は
(4373今奉部与曽布)
年を経て 絶えず思ひの 山に立つ 煙は胸に 消えぬものかは 詠み人知らず
浮恋を かわらず迚も 焼火見よ 思いの山に 立し煙を 詠み人知らず (参考 古代語の東北学 歴史春秋社 HPウイキペディア)(平成20年11月8日) |
東屋国神社 福島市飯坂町中野県道313号沿いにある 宮司不在の為余り手入れもされなてなく荒れ果てていた近所の方も桜のお花見の頃のお祭り以外は余り関心は薄いとの事 吾妻・信夫の地の国津神としては余りにもみすぼらしいのは残念だ
これが醍醐天皇の命により905年藤原時平の編集による律令の細則延喜式神名帳に載ってる程の古い由緒ある神社の果てとはとても思えない 吾妻の國信夫郡の国神だったのです |
江戸時代正徳年間神祇管領長従二位卜部朝臣何某からの神主斉藤伊勢守儀次に与えられた神道裁許状に東屋沼神社の官幣大社としての重みを垣間見ます |