奥州勿来の関祉碑  この「来るな」の関を端的に表すエピソードに『嘉祥元年(844)には常陸から陸奥にある38の末社に向かった鹿島神宮の使者さえもがこの菊多の関で追いかえされたと云う事件』である 蝦夷のみならず神威を伝える奉幣使までも拒否する噂が都で評判になりガードの固い名のみの関となったとも言う  下って弘仁2年(811)突然この関を通る浜街道十駅が廃止され久慈川沿いを通り白河へ出る常陸道ルートが新設されたのもこの「来るな」の関のせいかも知れない
左下 飛鳥井 宗勝歌碑   九面(ここつら・九浦)
『本国郡の極南堺にして常陸多珂郡平潟・関本の二村に接するもその間に小嶺ありて自然堺を成す 古の奥常の塞柵たりし勿来山これなり 今鉄道は九浦の西北関田に停車し駅名を勿来と云う 
九面や 波打ち寄せて 道もなし
      ここを勿来の 関と云ふらむ  飛鳥井 宗勝
この浪打ち寄せて 道もなしこそ地震による街道と菊多の関崩落の証でしょう(新編常陸国誌 この詠を 近世の公卿飛鳥井宗勝の岩城左遷の時の作とす)』と大日本地名辞書(富山房)に記述されている 更に『九浦は松川磯とも呼ばれ平潟港の北西に隣れる小港なるが港内狭隘且危礁あるを以て入泊の船なし』とある この狭隘且危礁こそ貞観地震の結果ではなかろうか?九面郵便局の住所は勿来町九面九浦14-5で勿来町は大字が全て九面である ここ九面から平潟そして大津港にかけてだけが海岸線がリアス式海岸なのは貞観大地震のせいではなかろうか

勿来の関公園内には上の様に18もの歌碑が立てられています 一部を載せておきました
   来の関 其の4            
       
  北茨木市式内社佐波々祇地神社 古代浜街道も当然この近くではなかったか 大津港にある海の守護神である式内社佐波々地祇神社日本武尊命東征の折大津港沖にて風波に漂う事数日夢に「吾ハ佐波々神ナリ 今皇子ノ船オ守護センガ為来レリ 直チニ順風にナサン」とお告げがありその通りになったので佐波波の山に幣を奉った事に由来する 貞観元年には従五位下を授与されてるのは何かの縁か
和泉 式部歌碑
 

右上
源 師賢歌碑

右 
小野 小町歌碑