吉原で代表的名妓高尾太夫の供養塔
と手紙 次ページ
驚く事に勿来・植田の北部渡辺町上釜戸に何と芝居・講談でお馴染みのあの吉原で代表的名妓高尾太夫の供養塔があるのです 伊達政宗の孫綱宗をして太夫と同じ重さの金を積まれても「わちきには夫婦の契りを結んだ人がありんス!」と肘鉄を食わせたあの遊女高尾である 彼女は妓楼三浦屋四郎左衛門の遊女だが12代も襲名された3代目仙台高尾とも呼ばれた 彼女にのぼせた綱宗は彼女へ通うのに伽羅の香木で作った下駄を履いて感心をかったと言う 
またれいの 下駄の客かと 島田いい
睦(陸奥)言は 嫌いざんすと 高尾言い
大鳥毛 高尾立派に 振りとうし

 散々振られた綱宗はとうとう頭に来て三叉川の舟遊び中彼女を「吊るし切り」にしてしまったと言う伝承がある 彼女は情人島田重三郎と言う浪人者に一途だったのです 実はその島田あての長い手紙が上釜戸の馬上一与宅に残されているのには驚きました 「嶌田大君様 高尾より・・・陸奥の大王様へ見うけの事きわまり・・・初めて君になりそめしより生きてハ家を処とし死してハ塚を同じくせんと・・・たとへていわん君と我つかいはなれぬかりがねの・・・籠の内なるうき思ひ・・・月にむら雲花に嵐・・・おもふにわかれおもはぬに添ふ事侭ならぬ御事・・・返すゝも髪毛一ふさ小袖一重送りまいらせそうろう かたみとおほしめし下されかし 申上渡御事ハ濱の真砂の数なれど泪にかきくれ阿かりも見へ不申 おしき筆とめあらゝかしこ 高尾より 嶋田様」と こんな手紙を貰った嶌田なる男はどんな男だったのでしょう。きっと近松門左衛門に出てくる気弱で優柔不断の男に違いない 苦界に身を沈めた人と思えない純情な内容には現代の賢婦も頭の下がる思いでしょう かくなる女性なら浮気をしても妻は文句は言えまい 才能・教養・器量・所作・振る舞い抜群の持ち主だったのでしょう
 
   君は今 駒形あたり ほととぎす 
   忘れねばこそ 思い出さず候
左 熊野神社 勿来 
大同2年(802)紀州熊野の新宮より分霊を奉斎したと云う ここの御宝殿熊野神社稚児田楽・風流国指定重要無形民俗文化財に指定されている
 勿来の関 其の5



 源 信明歌碑
右上中 星 一先生胸像  勿来市民会館
氏のモットーは親切第一で「自己・何人・職務・物品・時間・金銭に親切であれ」とあり「親切は平和・繁栄・向上なり 親切に敵なし 親切は世界を征服する」と脇の銅版に彫られている
 いわき市錦町生まれの彼は日本初の医薬品製造である星製薬鰍設立又現在の星薬科大学の前身である星薬科専門学校を創立した 野口英世のスポンサーでもあり金銭にルーズな英世は星に度々金をせびっている 米国から帰国する際にも「ハハミタシ ニホンニカエル カネオクレ」と電報を打っている 彼はまさに親切第一の人なのです
右上 国魂神社 勿来
栞によると大同元年(806)菊多の国造が出雲大社より勧進奉斎したという 国魂は国(郡)の中心でる魂(玉)であり郡内の八百万神々が集まる所なので菊多郡家跡もこの神社北側に発見されている 
   鮫川晩照 鮫川の渡しにある鮫川八景の碑  勿来・植田鮫川
上右  植田番所跡にある道標 
勿来の関は文学上の関だがここは事実の口止番所跡碑である 字名は 字番所だが今は本町一丁目となっている