馬上家にある高尾の位牌 お墓は台東区春慶院にあり位牌と同じ「為転誉妙身信女」が刻まれている |
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この道後(みちのしり)と云う言葉を使った面白い歌がある
仁徳天皇の歌で
道の後 古波陀嬢子(こはだおとめ)は 争はず
寝しくをしども 愛(うるは)しみ思ふ
(遠い遠い国にいた古波陀嬢子は抵抗もなく素直に私と共寝してくれた そのことをいじらしくおもう)
道の後 古波陀嬢子を 雷(かみ)のごと
聞えしかども 相枕纏(あいまくまとい)
(遠い遠い国にいた古波陀嬢子よ お前は雷がとどろくような評判の娘だが今私と手枕を交わして寝ているのだね)
共に古事記に載ってる歌だが道の後の意味は遥か遠い所の地の意味だったのでしょう それにしても仁徳天皇は閨の秘め事を公文書古事記に載せるとは権力の乱用でチョットやりすぎですよね
上左 安寿と厨子王母子の像 いわき市錦町金山公園
福島市の信夫の庄へも立ち寄った事になっているしいわき市にはそのゆかりの地が沢山あるのだそうです
左 岡倉天心の墓地 北茨城市五浦海岸
文久2年生まれの思想家・文人・哲学・美術家で現東京芸大や日本美術院の創設者で16歳の時13歳の女性と結婚していて更に26歳の時には彼を支援していた文部官僚男爵の妻と恋に落ちたと云う しかもその時彼女は既に男爵の子を妊娠してたのです
勿来の関 其の6
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