雲路にも 抑えの関の あらませば やすくは雁の 帰らざらまし  夫木和歌集 源 仲正
稀に来て 恋も尽きぬに いそぎゆく 人を抑えの 関もすえなん   夫木和歌集 読み人しらず
おもへとも 人目をつつむ 涙こそ 抑えの池と なりぬべらなれ   夫木和歌集 詠み人知れず
                                      
宮城・福島の県境の伊達北部には二つの関があったとゆうのです。下紐の関とこの抑えの関だ。共にユニークな名前である。奥州観跡聞老には『抑え関 桑折驛の北泉田村の西南に在て之を半田山と謂う。山下の地往昔関址也』と云うがはっきりしない。日本三大銀山のひとつ半田山銀山は平安時代大同二年(802年)に発見されているので重要な関ではなかったでしょうか。これは天平感宝元年(749年)陸奥の国涌谷からの金出土に匹敵すると思はれる。上記の夫木和歌集は又万葉時代や家集、私撰集を収録したもので史的事実を知るうえで重要とされているのです。伊達郡桑折町は桑折の宿として羽州街道がここから奥州街道と分岐して青森まで奥羽山脈を貫く大動脈となる重要な宿場町であった。抑えの関はこの羽州街道上にあったに違いない。この関は郷土史家菊池利雄氏の『羽州(七ヶ宿)街道』を見ると、実にはっきりするのだが7世紀末頃に刈田、柴田両郡が新設されるまで対蝦夷対策としての下紐の関と抑え関の重要性がはっきり分かるのです。私は陸奥の表と裏を縦に貫く二つの大道の分岐点桑折宿を少し過ぎた国見の貝田と小坂の地にこそこの2つの関は相応しいと思うのです。菊池氏によると半田山麓に大門の地と呼ぶ所がありそこを上の関、そして七ヶ宿を下の関と呼ぶんだそうです。又近くには御免町と云う地区もあり何かこの辺りに抑えの関の存在を託したいものです。尚ここ桑折町には奥州の覇者伊達政宗の祖伊達朝宗の墓がある事を知る人は少ないのです。ここは伊達家発祥の地なのです。又抑えの池は幻の池と呼ばれ普段は水がないのであるが長雨 大雨の後に忽然と現れると言う半田山の山頂下にあるという(古沼)沼であるが見るのはむずかしいようだ。抑えの関はこの麓だと言う。これとは別に半田沼(新沼)は現在町の公園となっている。不思議な事に宮城県古川市にも抑えの関がある(宮城県参照)が果たしてどちらが本物なのか今や知る由も無い。誠に歌枕は興味尽きない(平成14年4月2日)(伊達郡の歴史) 
  桑折宿追分
安永5年(1708)に建てられた追分 右奥州街道 
左羽州街道
と彫られてる


抑えの関


町指定史跡
  半田銀山

左画像は銀山坑道口であり中の画像は明治になって銀山から掘られた砕鉱が軌道車で運ばれ開通した東北本線まで運ばれたのです 其の俤をのこすのが軌道の羽州街道と立体交叉する陸橋の石垣跡です 明治天皇もこの銀山を二度も行幸していて其の碑もここにある