伊達氏の祖藤原(伊達)朝宗公供養塔 土饅頭の墓はこの後ろ 桑折町
彼は藤原氏魚名流に属し母は源頼朝の伯母である 出家してからは念西と称した 頼朝の奥州征伐には息子たち参戦して福島市南部の石名坂の合戦では 飯坂大鳥城主の佐藤基治の軍を破り平泉軍の総崩れの原因を作り軍功によりここ伊達の郡を賜った 彼は次男宗村と共に伊達郡に居住し保原高館に城を構え宗村は家名を伊達氏と名乗ったのです

左 県指定史跡旧梁川亀岡八幡宮
伊達氏の祖藤原(伊達)朝宗が保原高子岡に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと言われ鶴亀から亀岡八幡宮としたという 11代伊達持宗がここ梁川城築城の際に城の鬼門の方角にあたる1km北の阿武隈川河成段丘に祀られていた若宮八幡と合祀されて伊達氏の氏神となった
伊達植宗の時代に桑折西山城に移る際には桑折に移されたが伊達氏が米沢に移ることになり再びここ梁川に戻されたのです そして伊達政宗が仙台に移ると仙台城下川内の地にご神体が移されたのです 仙台市には亀岡八幡宮も存在するのです ここは初期伊達氏の重要な処でした
下左 旧梁川八幡神社
愛姫出会いの地 旧梁川亀岡神宮裏
 天正7年(1579)11月28日米沢にいる伊達輝宗の使いにより重臣遠藤基信は政宗の嫁になる三春藩田村清顕の一人娘僅か11歳の愛姫の輿をここ旧梁川亀岡八幡宮まで迎えに来た 送ってきた田村家侍大将向館内匠と基信は酒宴の席で連歌を取り交わしたのです
水晶の 玉のようなる 子をもって(向館)
         末繁昌と祈るこの数珠(遠藤)
花嫁の輿を受けた遠藤基信は小坂峠を越えて政宗の待つ米沢へと戻ったのです 
 

抑えの関 其の4
 右端上下 儀山9代伊達政宗供墓碑  東光寺 伊達市保原町柱田上ノ寺38 伊達家中興の祖、9代政宗の墓とされる供養石塔と寺号「儀山東光寺殿」と書かれた位牌があります 伊達家の紋は丸に竪三つ引き両ですが この寺の供養石塔の紋は丸に横三つ引き両となっているのが特徴です 石工の方が間違えたのかな? 墓は山形県高畠町にある 尚17代独眼竜政宗は貞山政宗という