初代伊達氏朝宗の墓 伊達郡桑折町 仙台伊達正宗瑞鳳殿・青葉城には比べようも無いが奥州街道沿いにある墓に伊達藩主は代々参勤交代の折には必ず参拝していたそうだ 抑えの関の南部に伊達郡桑折町がある 頼朝の伯母を妻にしていた常陸の藤原朝宗は福島市内南部にある石名坂の合戦で佐藤忠信・継信の父基治を討ち取る功績で伊達地方を拝領し ここ桑折に赤館(西山城)をもうけて15代晴宗まで凡そ380年の長きにわたりその居城とした。 それにしても正宗の瑞鳳殿に比しこの粗末さは寂しい 伊達氏が米沢に出たのは8代宗遠の時で山形置賜地方の長井氏を侵略米沢に進出した
上右 国指定史跡桑折西山城祉 背後の山が西山城址 |
常陸介伊達朝宗室結城氏墓地 福聚寺墓地内
伊達郡国見町の宮城県よりの山腹にある光明寺地区にある 別名光明寺尼とも呼ばれ結城氏の娘である
左 4代稙宗(曽祖父)と15代晴宗(祖父)の時に親子の内部紛争(天文の乱1542ー1548年)が起きたがその講和の際の条件に西山城の破却が条件とされたために廃城とされ晴宗は米沢に居城を移した |
奥州街道と羽州海道の分岐点 伊達郡桑折町 左へ羽州街道 右へ奥州街道
上右 松尾芭蕉像 桑折町伊達郡役所内
芭蕉は雨漏りや蚊で眠れぬ飯塚の里から桑折寺の脇を通り伊達の大木戸へ向かったのです「…短夜の空もやうやう明けくれば又旅立ちぬ 猶夜の余波こころすヽまず馬借りて桑折の駅に出づる」と不機嫌な様子を述べている
抑えの関 其の3 |