あづま路や ささやきの橋 中たへて 文だに今は かよはざりけり ささやき公園の碑 源 頼義 みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびしのびに ささやき公園の碑
このロマンチィックな名前は勿論武人頼義によってではなくやはり郡山の地は安積釆女による。『安積山 かげさえ見ゆる 山の井の・・・・・』でご機嫌が回復した葛城王だが 中々したたかで宴に出ていた美人の春姫という女性に目をつけてしまった。彼女を釆女として差し出せとの我がままをいいだした。国司虎麻呂(虎丸という地名有り)の次女なのだが彼女には許婚(安積国造神社神主の息子太郎)がいたので はたと困ってしまった。勿論彼女も許婚も猛反対したがなんといってもその後左大臣橘諸兄に出世し 聖武天皇の片腕となる人物の葛城王には逆らえない。泣く泣く別れざるを得なくなった。そしてその別れ際に最後の愛をささやいた所が 現在郡山貨物ターミナル隣 笹川 安積町日出山を流れるここ篠(ささ)原川にかかる橋の上だった と言うわけである。旧奥州街道にある。その後悲嘆にに暮れた太郎は山の井に入水した。恋焦がれる都の春姫も興福寺猿沢の池に飛び込んだ振りををして安積に逃げ帰ったが 太郎は既に亡き人と知り その後を追って山の井に飛び込んだと言うわけである。源 頼義が前9年の役で陸奥に下った時(1051年)にその魅力的名前に感じて詠んだものか。 このささやき橋の南1kmほどの所に篠川御所と云う史跡がある 足利尊氏が天下を取り京都に室町幕府を開くが関東における鎌倉の重要性は変わらず弟基氏に関東管領(後に鎌倉公方)職に任じた その時息子満直を陸奥安積郡篠川に、満直の弟満貞を岩瀬郡稲村に下向させて陸奥の守りとした。後に篠川公方・稲村公方よばれたのです 御所とは天皇の在所の様に大袈裟な史跡だが京都にいる征夷代将軍足利尊氏の曾孫の居城のせいで御所よばれたのであろうか。今鳥居の額には東館稲荷神社とある。 但し場所が分り難い。両御所の距離は直線距離で10km程である
(平成4年7月12日)(安積釆女とその時代 教育書籍・郡山市史)
下 篠川御所跡 東舘 下 史蹟篠川城跡の碑 右 静御前堂
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静御前堂脇にある乳母(左)と下僕小六の碑
静御前にお供してきた乳母と小六の慰霊碑だが乳母の碑は彫られてる文言がはっきり読み取れるが小六の碑の文言は読み取りが困難な程風化している 同時期に作られたとは思えない 乳母の文言を次ページに記載した |
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静御前堂 静御前終焉の地 郡山市静町
しずやしず 賎のおだまき 繰り返し
むかしを今に なすよしもがな
それにしても伝承とはどのようにして発生するのでしょうか |
ささやき橋の悲恋以上の悲恋の史蹟がこの静御前堂である どうも陸奥ではめでたしめでたしの恋は少なく大部分が叶わぬ恋の史蹟が多いようだ 古来陸奥の性格上止むを得ないがそれ故陸奥は面白いのです 郡山市内西部の靜町にある源 義経の愛妾白拍子静御前の霊を祀ったお堂である 靜御前は平家滅亡後兄源頼朝に追われて平泉の藤原秀衡のもとに下った義経を慕って北に向かいここ安積の地まで辿り付いたが里人から既に平泉に発ったと聞き途方にくれた彼女は遂に池に身を投じたと言う 其の池が市内大槻町太田地内の美女沼 かつぎを捨てた所が同南原地内のかつぎ沼であると言うのです(郡山市観光協会) 然しご他聞にもれずこの手の美女伝説終焉の地は全国各地にあり南は福岡県・香川県・兵庫県などにもある 北へ向う新潟県・埼玉県・福島県にあるのは何となく信憑性もあるが南へ追いかけるとはチョット方向音痴の気もするが・・・
吉野山 峰の白雪 踏み分けて
入にし人の 跡ぞ恋しき
上の歌で頼朝は激怒し刀に手をかけたが妻の北条政子がすぐに「主を思う女心は女にしか分からないのよ」と諌めたので彼女は命拾いをしましたがこの時彼女は妊娠6ヶ月で出産と共に赤子は殺されたのです |
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郡山市指定史跡針生古墳と石造塔婆の碑 古墳の上にある松の木の脇に天然記念物の石柱が立ている昭和9年に指定されたと彫ってあるがまさかこの平凡な松が天然記念物なのか信じがたいのだが 或いは既に切り倒された名残か 静御前堂の裏にある
ささやき橋
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