乳母碑
源義経公が文治年中当国をへて奥州平泉に御下向されたので静御前様御跡を慕い乳母と小六を共にして東路に赴せ給ひしが文治二年秋九月暫く東国八幡へ尽かせ給い八幡宮に御参籠義経公へ恙く御対面を祈るらせ給う翌日化粧し旅装束つくろわせたたどり行給う 折から小六長途の疲れから路に倒れ伏し遂に息絶えるたり御前御なげき弥増り涙にくれさせ給う里人この様を見参らせ涙と共にこの所へ葬り小六ヶ峠と名付け給う里人に義経公の行方を尋ねしにこれより遥か奥の平泉高舘にお在しますと答えければ聞くも怪しみ給わず御涙に喉ばせ給い頼りにし小六には亡くなられ遥かに遠き平泉まで誰を頼りて御行方尋ね求めん術もなく是や限りと嘆かせ給い御被を脱ぎ沼へ捨てさせ乳母諸共列なる池へ御身を投げさせ給うこの所御前渕として今もあり所の長人ども当地御堂の所へ葬り奉り乳母わずかに退き葬り墓の卸に桜を植え乳母桜今もありあります
                    撰文 大河原 勝衛
 

 耳語橋の碑の裏面の文言
天平四年(722)奈良が都として栄えていた頃、都より葛城王が按察使として陸奥の国へ下向の際、片平郷の国司祇承が三年も年貢を怠っていたので王の怒りに触れた。其の時みめ麗しき春姫が『安山影さへ見ゆる・・・』と詠みて歓待につとめたので王の怒りが解けた。王が都へ還る時この地まで見送りに来た春姫に橋の上で別れを惜しみ何やらささやいたが里人には何も聞こえず川の流れが一瞬止まっとも言われ後世この川を音無川 橋を耳語橋と称するようになった 尚永承六年(1051)源頼義・義家親子が東征の折この橋が朽ちていたので『東路の・・・』と詠まれたと今に伝える

  ささやき公園 郡山市のささやき橋のたもとにある碑で耳語橋と音無川とあり冒頭の歌が彫られている 後ろは東北新幹線
 密語橋通り 福島市県庁西側
 然しこんな情緒ある名前も福島市民でも知る人は少ないでしょう
 郡山市のみならず福島市にもそれはあったおです  由来書によると福島市の西方郊外の笹木野部落の
 

ささやき橋 其の2
            
   郡山市 笹原川に架かる耳語橋  奥の高架は東北新幹線です この橋は笹原川にかかり昔はもう少し上流にあったとも云う 余りの小声のため音が聞き取れず川の流れも音無川とも呼んだと言う  この道は旧四号国道で奥州街道であった
 郡山市のささやき橋
折杉と云う所にあった大杉が 福島城に入る道筋(杉妻会館の西側)に架ける橋にするため切り倒された 後には土橋に架け替えられたがこの大杉の精はおろすと云う美しい娘に恋焦がれていたのです その為お城の橋になったあとも娘を想って毎晩おろす おろすと言うささやき声が橋から聞かれたと言う だからこの辺りを杉妻町と言いこんな噂から後にこの橋をさやき橋と呼ぶようになったと言う ささやくは一般的には”囁く”と書かれる 耳が3っつもないと聞こえない位小声で話すことなのでしょう 郡山の耳語 耳元で小声で語り合う感じであり 福島の密語は大人同士がただならぬヒソヒソ話の雰囲気だ 其の字体から来る語感のニュアンスから二人の状況が想像され面白い 講談社の現代実用辞書を見ると他に私語(ささめごと) ささめく等がありともにひそひそはなす とある 


福島のささやき橋

上 福島市の地元の方にも余り知られていない 福島県庁杉妻会館の中庭にある密語橋