陸奥の 信夫文知摺 誰ゆゑに 乱れ染めにし われならなくに 古今和歌集 源 融
乱れぬる 心はよそに 見へぬらん 何か人目に しのぶ文知摺 藤原 顕昭
みかりする 垣のねずりの 衣手に 乱れもどろに しめるわが恋 経信集 大納言経信
『しのぶ』を冠した歌のNO1は何としてもこの『信夫文知摺』であろう。「もじずり」とは絹地に紫、山葵、萩、露草、椿の葉・忍ぶ草などの草木の色素もって乱れ模様に染めた一種の捺染めだろうという。信夫の摺り衣は乱れ染めであり 左大臣源 融に詠まれたことによりそれは思い乱れとなり 男と女の仲は色の乱れとなり 心も乱れる恋の煩悩をあらわす人間の本能にマッチした言葉として 又宮廷貴族だけでなく神代の昔から日本人の恋心を表現する言葉としてこれ以上の言葉はなかったからと思われる。陸奥国多賀城へ向う融は信夫の里の村長の家に宿泊した。然もこの田舎にも拘わらず1ヶ月も長逗留したと言うのだ。長の娘虎女と恋に落ちたからという。都に戻っても必ず迎えに来るとの約束を交していたのですが結局約束は反故にされたのです。悲恋にはよくある定番なのです。そして864年按察使源 融が虎女に宛てた一通の手紙が、905年紀貫之によって古今和歌集に撰
られた事により、俄然都人の陸奥への憧れが一気に高まったのである。宮城学院女子大学名誉教授佐佐木忠慧氏はその
文献に『この歌により荒々しい蝦夷的陸奥が、都の洗練された詩の世界へはじめて繰り入れられ、この一首により陸奥文学の存在理由が確かなものになった。』と書いている。この純愛物語は確かに後世の人々の胸を締め付けるのであるが、一夫多妻の当時彼が本気で娘に惚れたとは思えない。それは在原業平が伊勢物語で陸奥の女をコケにしているのに似ていると思うのです。何も知らない純な田舎娘虎女にとっては悲恋でも左大臣にとっては冷やかし半分で送ったのではないでしょうか。なんといっても彼は光源氏のモデルの一人と言われてるテクニシャン(?)なのですから。所が歌だけが一人歩きし想像力が更に輪をかけてこの信夫の地を一級の悲恋の歌枕の地にしてしまったのではないかと思う。そうとは知らず今真新しい立派なお墓が二つ並んでたっています。この様に『信夫文知摺はキリスト教の聖書かイスラム教のコラーンの地名の様に歌詠みには必ず心得ておくべき固有名詞となったと』と司馬遼太郎は「街道を行く33」(朝日文芸文庫)で書いている。(平成14年7月2日)(参考 福島市史 福島市) |
|
|