源 融と在原業平の2人によって陸奥歌枕のスタートの引き金となった『信夫もちずりと信夫山』は信夫摺の狩衣、乱れ染め、若紫の摺り衣、しのぶ染め等が新しい歌の素材となり 人の心情、男女の機微や恋愛感情を引き出す言葉となった。そして更に実際に有る無しに関係なく信夫を冠にした歌枕が次々と詠まれたらしい(平成14年7月2日)

涼しさを 楢の葉風に さきたてて しのぶの森に 秋やきぬらん(信夫の森)
                   千載和歌集 顕昭
つれなきを 思ひしのぶの さねかずら はてはくるをも いとふなりけり
                 (信夫のさね蔓)後撰和歌集 読み人知れず

尋ねばや 信夫の奥の 櫻花 風にしられぬ 色やのこると(信夫の奥)
                       新撰和歌集 藤原定家
わが床は 信夫の奥の ますげ原 つゆかかりとも 知る人ぞなき(信夫の原)
                   千載和歌集 大中臣定雅
いかにして ゆきて乱れん 陸奥の 思ひしのぶの 衣へにけり
                            
任ニ集 藤原家隆
 
陸奥を代表する歌枕の地 文知摺観音堂絵になる紅葉と観音堂
               
 信夫文知摺 其の2 
   この異様な文字は 甲剛 の古字とも云われる 甲剛は金剛で北斗七星を意味するとも言われ北畠親房の親筆を息子顕家が建立したとも伝える

 左中  小川芋銭歌碑 
人肌石
は人肌の温もりを持つことから名づけられた 明治・大正年間に二度訪れた芋銭は人肌石を見て 
若緑 志のぶが丘に
  登り見れば 人肌石は
 雨に濡れいつ
  と詠んだ

左端  正岡子規句碑 
涼しさの 昔をかたれ 
   忍ぶずり   
の句を明治26年夏が訪れ残しました