あやなくも 曇らぬ宵を いとふかな しのぶの里の 秋の夜の月                      新古今和歌集 橘 為仲
誰ゆへに 憂き世を捨てて 隠れなば しのぶの里や 棲み家なるべき                      藤原兼宗
陸奥の 信夫の里に 道はあれど 恋てふ山の 高根しるしも                             山家集 西行
夏の夜の 月は清見が 関に見る 秋は信夫の 里に眺めむ                             夫木和歌集 慈鎮
しのぶ  偲ぶ 忍・・・此れほど日本人の心情を表現している単語はない。その心情の古里みたいな地 しのぶの里は実方、能因、
西行他、古来多数の男女歌人が詠み、かつ憧れた『信夫』の地は次の歌で更にダメを押されたのです。
     陸奥の しのぶ文知摺 乱れつつ いろにもは めてき  
後のいろはうた恋の部 藤原定家
この一首の中に彼は、恋に関する言葉を六つも詠みこんだのだ。それほど恋と信夫ははまってしまたのだろう。氏素性も抜群で中世最高の歌人のこの恋の歌は、その語感からくる日本人好みのマイナー調、短調的性格と相まって信夫の里にたいする評価は揺るぎないものにしたに違いないのです。『しのぶ=恋しのぶ、耐えしのぶ、昔をしのぶ、あの人をしのぶ、しのび泣く、世をしのぶ、しのび足、しのび泣き、しのび逢い、しのび居る、しのび通う、しのび寝(音)等』 恋に破れ、疲れ、裏切られ、ぼろぼろになった身は今も昔も南には行かず、北へ向ったのだ。そこにある信夫の里は大和朝廷の支配下とはいえ、まだまだ異国情緒たっぷりの蝦夷の雰囲気だったろう。なにもかも捨てて地の果てへ逃避したい気持ちは今も昔も変わらない。その最果ての地が当時は信夫の里だったのかも知れない。国境の町多賀城までは100kmちょっとしかないのだから。この信夫の里の名が記録に出てくるのが続日本紀707年(慶雲4年)5月26日の条にある防人壬生五百足の記述である。663年(天智天皇の2年)の朝鮮を侵略した有名な白村江の戦いで新羅・唐の連合軍の水軍に敗れた時捕虜となった讃岐国那賀郡の錦部刀良と陸奥国信太郡の壬生五百足が40余年を経て奇跡的帰還したのである。この信太の太は信夫の夫の記述ミスとされてるのです。宮城県にある志田郡はその建郡は789年(延暦8年)であり、常陸国にも信太郡があるにはあるが続日本紀を編纂するほどの知的著者が常陸と陸奥と書き違えるとは思えないから信太は信夫であるとされているのです。然しそれにしても日本書紀627年(推古天皇35年)春2月の条に『陸奥国に狢(うじな)有りて人に化(な)りて歌をうたう』とある。狢は古代は穴熊の別名であり蝦夷蔑視をもじったものであるが、然しその狢だらけの陸奥の信夫の里が都の人々をしびれさせる恋の里となるとは誰が予想できたろうか?。(平成14年4月27日 福島市史 花見山栞  福島県の歴史 河出書房新社 福島県の歴史散歩 且R川出版社)
  3月上旬から4月旬に凡そ30万人が訪れる花見山は何と個人の所有にも関わらす無料と云う気前のよさである

 花見山山頂から吾妻山(物思山)を望む
                            
    信夫の里       
左 福島の桃源郷
写真家故秋山庄太郎氏
「福島には桃源郷がある」と云い ここ信夫の里花見山には毎年その風景と撮影を楽しみに来た 市内には秋山氏の撮った花の写真館もある
 画像は4月下旬ピークは過ぎてるが全山満開時のパステルカラーの眺めはルノアールの絵のようだ とは案内人の話である  花見山山頂から信夫の里福島市街地」を望む 右上方に信夫山が見える 
  一本の木に2色の花が咲く花桃の花 此の他に十月桜・蝋梅・梅・サンシュウ・彼岸桜・連翹・木瓜・白木蓮・染井吉野・八重桜・日向水木・鬱桜・利休梅 ・皐月・春紅葉等最盛期には一見の価値ある風景です 吉野山は桜一色の人目千本だが花見山は数十種類の花が色彩豊かに咲き乱れるのです