うちはへて 苦しきものは 人目のみ 信夫のさとの あまのたくなは    新古今和歌集 二条院讃岐
心をし 信夫の里に おきたらば 阿武隈川は みまくちかけん          金塊和歌集  源 実朝
ちらすなよ ちらさばいかに 辛からん 信夫の里に 忍ぶ言の葉           賢礼門院右京太夫
有明の 月の光に 鳥の音も えやは信夫の 里の秋風                任ニ集  藤原 家隆
春の夜の はかなき夢も かよふらん 信夫の里は 道とほくとも                順徳天皇
いづくより 吹きくる風の ちらしけん 誰も信夫の 杜の言の葉        千載和歌集 左兵衛督隆房
言の葉も わが身時雨の 袖の上に 誰を信夫の 森の木枯らし        続拾遺和歌集  順徳天皇
つれなきを おもひしのぶの さねかつら はてもくるをも いとふなりけり 後選和歌集 詠み人知らず
尋ねばや 信夫の奥の さくらばな 風に知られぬ いろやのこると     新後選和歌集 藤原定家
わが床は 信夫の奥の ますげ原 つゆかかりとも 知る人ぞなき      千載和歌集 大中定雅
東路の 信夫の里に やすらひて 勿来の関を こえぞわづらふ        新勅撰和歌集 西行
   長閑な初夏の信夫の里 中央が信夫山 下部のグリーンが阿武隈川 山の右の流れが松川 中央のグランドは福島競馬場である 奥の山々が吾妻連峰で画像が切れた左側に安達太良山がある 余りにも日本人の心情にマッチした信夫の地は里の他に山 森 奥 渡り 岡 文知摺 原 浦 さね蔓等 数々の題材で歌に詠まれてきた都人羨望の地であった  画像 ㈱進和クリエイティブセンター 後藤行弘氏提供 

右 萬年山長楽寺
福島市船場町6-13
仙台藩軍事局がおかれ世良修蔵暗殺の密議が行われた所といわれている



信夫の里 其の2





右 世良修蔵襲撃遺構
長楽寺境内

世良修蔵暗殺に自分の手下提供したとされる浅草屋宇一郎夫妻の碑 宇一郎は現明治病院の地で旅籠浅草屋を営業していた 後日彼は暗殺の先導したのを後悔してるという 隣には仙台藩烏天狗組の碑(首領 細谷十太夫)が並んで立っている 彼は迫りくる官軍に対して衝撃隊を結成し夜間黒装束で敵陣を畏怖せしめからす組と称された

彼は高杉晋作が作った奇兵隊に応募した漁師上がりの成り上がり武士のためかなり横柄な言動だったようだ 東北人にとって彼の斬首は止むを得なかったのです 
世良修蔵暗殺慰霊の碑
この画面には場違いだが市内のど真中にある稲荷神社境内に殆ど顧みられることない北の片隅の林の中に然も鉄柵で囲まれてひっそりと立つ
世良修蔵の慰霊碑 彼はこの神社の近くの北町の旅籠金沢屋に遊女と寝ていた所を仙台藩士と福島藩士によって襲われた 「我レ賊等ニ対シテ言ふへき言ナシ 早ク我カ首ヲ刎ネヨ」と答えたと云うが二階から飛び降りた際に頭を打ち瀕死の重症で尋問の為の白石までの搬送にも耐えられず結局早朝阿武隈河畔越浜村大字下河原で斬首された いまわの際に及んでも尚奥羽越同盟諸藩を賊呼ばわりしている根っからの長州藩士である 碑には長藩世良修造と彫られている 本物の墓は白石市にある 彼の肩書は奥羽鎮撫総督府下参謀である 会津の悲劇は薩摩藩士大山格之助に充てた彼の密書に如実に記載されている 「奥羽を皆敵とみて武力を以て一挙に討伐します」 つまり会津の討伐を名目に奥羽諸藩に参戦を強制しながら陰では奥羽を一挙に討伐すると云う密書が発覚した事が奥羽越列藩同の成立した要因です➡