天文の乱 伊達政宗が東北の雄となる前のまことに伊達家の開化期に起きた親子の戦いである 政宗の祖父15代晴宗と曾祖父14代稙宗との戦が天文11年(1542)から天文18(1548)奥州諸国を巻き込んだ凡そ7年にわたる内乱だ この張本人二人はここ信夫の里が居住地であり伊達氏の本願の地が福島市を含む伊達市一円なのです 稙宗は外交手腕に優れその版図拡大には羽州探題最上義定に妹を送り 中央の11代将軍足利義稙にも多大な貢物を献上して「ヨイショ」しその一字を拝領して高宗から稙宗に改めその後左京太夫にまで任官された この役職は本来奥州探題の大崎氏が世襲していたが事実上大崎氏に取って代わった事を意味した この様に戦争と巧みな姻戚外交により伊達氏は奥羽の実力者となって行く 其の彼が今度は精鋭忠実な家臣100人を付けて三男伊達実元を越後守護上杉定実に入嗣しようとした事を長男晴宗が猛反対した事に始まる 一時稙宗は桑折西山城に幽閉されたが小梁川宗朝によって救出された 稙宗は奥州諸藩を糾合して晴宗に対抗したため奥州全体を巻き込んだ家内騒動となったのです 当初稙宗が優勢であったが後に會津蘆名氏が晴宗に寝返ったため一転して不利となり将軍足利義稙の仲立ちで晴宗に降伏し家督を譲って宮城県丸森城に隠居した 稙宗は永禄8年(1565)丸森城で78歳で死去したが遺骸は彼が開基したここ福島市の陽林寺に分骨埋葬されたのです この様に信夫の里は伊達氏揺籃期の生臭い里でもあったのです 残念ながらもはや福島でも御存知ない方が多いようです
宝積寺にある晴宗の墓は福島市内の真ん中にありそのその墓地も石の柵で囲まれた立派なものだがその父稙宗の墓は福島市の南部のはずれ位作山の山中という寂しい陽林寺にある 御覧のように質素な五輪塔で然も比較的新しいと云う事は以前には相当粗末だったのではなかろうか 稙宗によって上杉へ養子に出されそうになった伊達実元の墓もここにある その後彼ははここから北5kmにある大森城主となり開山した父と共に寺の保護に努め一時45ほどの末寺を持つにいたった 彼はその後嫡男伊達成実と共に忠実な家臣として政宗の片腕として働いた
信夫の里 其の3
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伊達輝宗の首塚 慈徳寺 元は五輪塔だったらしい 頭部には家紋の竹に雀が掘られてる
首塚は政宗の父伊達輝宗のものである 仙道(中通り)支配めざし二本松城と対峙してた時政宗不在をついた畠山義継によって拉致された輝宗は高田原(粟の巣)の戦いで殺されてしまった 勿論政宗は義継を撫で斬りにして藤蔓で縫い合わせ大木に吊るし仇は討つが埋葬の為米沢への途中福島市郊外佐原の吾妻山の麓にある慈徳寺で火葬したのです 墓地は米沢郊外の資福寺にある 葬儀の導師は幼年時代政宗を教育した虎哉禅師である |