陸奥にゆきつきて しのぶの郡にてはやう見し人をたづねれば その人はなくなりにきといへば
浅芽生の 荒れたる野辺は 昔見し 人を偲ぶの 渡りなりけり           能因集 能因法師
      陸奥にて語らふ人なくなりにけりと聞きてゆきてみれば荒れたる家に荒き馬をつなきけり
とりつなぐ 駒とも人を 見てしかな つゐにはあわしと 思ふばかりそ    能因集 能因法師   演歌に歌われた矢切の渡しの他に川の多い日本には沢山の渡しがあります。福島市内にも箱崎の渡し、瀬上の渡しや芭蕉の奥の細道で有名な月の輪の渡し、そしてこの信夫の渡りがあります。でも地元では月の輪ほどの知名度がないのは残念だ。ご承知の通り能因が最初に陸奥の歌枕の地を紹介した人にもかかわらずである。身分の高くない彼は馬喰もどきの仕事だったらしいので2、3度陸奥にも来たらしい。能因法師集には6首の駒の歌があり福島県でも2首詠んでいる。彼は陸奥から戻った国司がお礼や役得でもらった馬を一時預かる牧場経営で収入を得ていたらしいのだ。だから信夫の里にも知人がいたらしく暫くぶりに来て見たらすでに亡くなっていて回りは荒れ放題であった。信夫の渡り辺りにすんでいたのだが元気なころを思い出すだけだ、とでも詠んだのでしょうか。所で信夫の渡りとはどの辺だったのでしょう?。現在福島南東部阿武隈川沿いに渡利とゆう古い地区があります。その向かい側で阿武隈川と荒川(須川)が合流するのですが都の人が陸奥に入るには東山道、つまり今の旧4号国道しかありません。そうするとこの合流点の荒川を渡るしかないのです。今ここには信夫橋があり近くには渡利町がありますがもう少し下流には古くから絹の里の川俣へ通じる古い松齢橋がありこの辺りが有力と云う。又岡部橋辺りと言う説もあるようだ。右の写真は3っつの歌枕が一緒に見える貴重なポイントです。手前が阿武隈川で渡利地区、背景の山が憂思山、そして手前の橋が信夫橋です、後ろの橋が新幹線で下を流れるのが荒川です。所で街道をゆく作者の司馬遼太郎氏は大阪外大蒙古学科出身だけに馬や騎馬民族については詳しいようだ。(平成14年2月25日)(参考 街道をゆく33白河・会津のみち 朝日文芸文庫 阿武隈川舟運図 建設省東北地方建設局福島工事事務所) 
信夫橋(信夫の渡・.江戸口)脇にある奥州街道碑

 信夫の渡り




 
  由緒板によると人皇臺50代桓武天皇の御世 大和国三笠山春日神社より往古勧請し陸奥信夫郡のこの地に鎮守と奉祭すとある 宝暦5年2月25日正一位大明神の神位をを賜った由緒ある春日神社だ 有名な花見山のすぐ近くにある(神社説明版)
左中 樹齢500年超根回り9mの御神木の大杉 福島市の天然記念物でしたが昭和20年3月の強風の為半分が亀裂した
左 渡利春日神社境内にある能因の歌碑 一緒に重之 光俊の歌も載っている 総て渡りの文句が入っているからか