入りしより 身をこそ砕け 浅からず 信夫の山の 岩のかけ道     式子内親王集 式子内親王
人しれず 苦しきものは 信夫山 下這う葛の うらみなりけり     古今和歌集 藤原 清輔

いかにせむ 信夫の山の 下紅葉 時雨るるままに 色のまさるを 千載和歌集 二条院前皇后宮常陸
きえねただ 信夫の山の 峰の雲 かへる心の 跡もなきまで       新古今和歌集 雅経

初時雨 信夫の山の もみじ葉を 嵐ふけとは 染めずや有りけ   新古今和歌集 七条院大納言
いかにせむ 信夫の山を 越へかねて 帰る道には また惑ひける            滋円

かぎりあれば 信夫の山の 麓にも 落葉が上の 露ぞ色づく      新古今和歌集 左衛門督通光
尋ねばや 忍ぶの山の ほととぎす  心の奥の ことや語ると          千載和歌集 皇后宮

通路の なきにつけてぞ しのぶ山  つらき心の 奥は見えける
  新後拾遺和歌集 大納言藤綿為家
恋故に 浮世をすてて 隠れなば 忍の山や 棲家なりけり        六百番歌合 中山兼宗朝臣
夢にだに 未だ踏も見ぬ 信夫山 深き恋路を いかで尋ねん          孝信集  隆信朝臣
  晩秋の岩谷観音堂
信夫山の旧称は青葉山 
伊達政宗の仙台青葉城はここからのネーミングです
 
湯殿山神社 石姫皇后伝説の地に立つ 大山祇命・大己貴命を祀る 大山祇神が烏が崎の大岩に御立ちになったとき忽然とお湯が湧き出したという伝説がる

 
 信夫の里と信夫山 日本人の心情にこよなくマッチし古来都人を魅了した陸奥の歌枕の里である 福島県の歌枕の歌凡そ800首中信夫郡の歌が230首であの歌名所白河の関が80首である事を思えば信夫山・信夫の里がいかに往時全国的知名度を誇ったかお分かりいただけるでしよう  その知名度は明治になっても樋口一葉が日記道しばのつゆの中に
 
     母君妹などもゆるしなうの給なすを、しのぶの山の下の通い路もとめんには何ごとのうきかあるべき
と記述し 又宮澤 賢治
      信夫山 はなれて行ける 機関車の ゆげのうちにて うちゆらぐなれ
と詠んでいる。(文芸の森 信夫山から)                       

                  信夫山 其の2                   
  
岩谷観音磨崖仏の一部 信夫山東端にある福島市指定史跡及び名勝  平安末期から鎌倉期にかけてこの地に居住していた佐藤基治の叔父とも言われる豪族伊賀良目七郎高重氏の末裔が持仏の聖観音を安置した窟観音に始まるとされる 遠く都の貴族たちの三十三観音巡拝の風潮が地方の民衆にまで普及するにつれて西国三十三観音の磨崖仏が彫られ現在の岩谷観音が形成されたという 其の時期は宝永6〜7年(1705)頃である 市内唯一の磨崖仏で三十三観音の他60体にも及ぶ大小の供養仏が群像をなして彫られている景観は他に類を見ず素朴で素直な民衆の敬虔な信仰心を見ることが出来る 風化が激しいいのは残念だ
 
月山神社 
月読命
を祭神とするが羽黒の祭神八田王子が亡くなられた時郷民が王子が奉持された八咫鏡を模して神鏡をつくり御神体として奉納したという伝説がある