福島市街と信夫山
信夫山
は昔湖沼の中であったと云う 御山の愛称の信夫山はそこに浮かぶ島の伝承がある 手前の川が歌枕の阿武隈川で上部山の裾にあるのが飯坂温泉で左下に福島駅 右のグランドが福島競馬場 叶i和クリエイティブセンター後藤行弘氏提供
 月山神社の近くにある吾妻山権現 
上右 山頂烏が崎から見る西部一帯と吾妻山である この対峙する姿は古代語の東北学(高橋富雄氏)にある吾妻山も偲山も同じことで日本武尊伝説にある 偲ぶのは吾妻をしのぶのであり 元々同じ意味の山の呼称なのがはっきり分かるのである
右 延喜式内社黒沼神社 往古信達盆地が泥海であっというイメージが黒沼の名称になったのでしょうか 湖水の主を祀る水神である 石姫皇女を祀る由緒ある神社
      信夫山 其の3
 29代欽明天皇(?〜571年)には長男矢田珠勝大兄皇子(八田王子)次男渟中倉太珠敷尊がいたが天皇は次男を30代敏逹天皇538年〜585年)とした。これに対して妻の石姫皇后は長男の八田王子を強力に推進した 当時は第一皇子が次期天皇になるのが当たり前の時代に第2王子が昇格をしたのです。異例の跡目争いに敗れた屈辱無念の八田王子は奈良に留まれまれなくなり都落ちを余儀なくされ、終の地として数々の候補地から選ばれたのが陸奥の信夫の里の盆地の真ん中にある信夫山だったというのです。そして吾妻山と安達太良連邦が見渡せる羽山山頂烏が崎岩場に本拠地を構えたというのです。皇族の品位・品格を持った彼だが信夫山に巣食う山大蛇や大百足・天狗などの怪物三悪を退治して村民からは大いに尊宗されていた 更に彼は未だ信仰心の薄い村人の拠り所として羽黒山頂に本格的羽黒大権現を建立したのです。そうした彼がある日天に召されてしまった。一方皇后として久しく奈良に残っていた母石姫皇后八田王子への身の上を案じ片時も忘れられずに安泰を祈願していたがその思慕も日毎に募り、ついにいた溜れず我が息子に逢いたい一心で明日香村をあとにして過酷な陸奥へと旅たった。その時密かに同行したのが小手姫と云う。あの出羽羽黒山の開祖蜂子王子の母君である。実はこの時代は姻戚同士が会い争う激動の時代であり、蘇我馬子(?〜627年)によって崇峻天皇(?〜592年)が暗殺され、暗殺を恐れた聖徳太子(従兄弟)により密かに出羽羽黒山へ脱出した蜂子皇子の母親が小手姫なのです。小手姫伝説は隣町伊達市月舘町に小手姫神社がある。(山形県羽黒山参照) 石姫皇后も小手姫も共に我が息子恋しさに陸奥に下ったのです。ところが尋ねついた時には八田王子は既に亡くなっていたのです。嘆き悲しんだ皇后も21日に目にお亡くなりになったと云う。村人はこれを哀れみ麓の黒沼神社の大明神として祀り、羽黒山山頂の羽黒大権現には八田王子を主祭神として祀ったという。信夫山の柚子は八田王子の好物であったのを石姫が持ってきたものという。信夫三山神社にはこんな魅了的伝説に裏づけられてるのです。
(信夫山石姫皇后悲哀物語 凸凹未来企画学舎)