浦遠き 山は霞の 色ばかり みちてくもれる しおの山かな    回国雑記 道興准后
『塩の山といふ所は山中に侍る 是より海辺へは十里ばかり侍るとなむ』との詞書で道興は上の歌を回国雑記の中で詠んでいる。この聞きなれない地名を彼は 安積の沼 安積山 阿武隈川の次に詠み さらに引き続き衣の関 武隈の松 末の松山と陸奥の錚々たる歌名所と共に詠んでいる。彼は又
           かくしても ふるさと人に いつかきて あふくま川の いつとたのまん
と阿武隈川も詠んでいる [二本松領内に塩の松といふ所あれば、この松のある所を塩の山といふか尋ねべし] とあるが安達郡岩代町の教育委員会に尋ねても『そういう山はない』との返事である。ただ昔から二本松東部の東部安達郡一帯は「塩松とよばれていて 四本松とも書くというのである。奥州後三年記に国司(義家)郎党に参河国住人兵藤太夫正経、判次郎{仗兼助と云う者あり」とあり、家臣伴次郎助兼が1065年源義家が奥州下向の折ここ東部安達郡に移住し その時本国攝津から4本の松を持ってきて屋形の四隅に住吉四所明神を勧請したのでその城を四本松舘とよばれたと云うが、四本松も塩松も東北弁ではどうも紛らわしいのです。ですから阿武隈山中にある東安達郡の山を道興は塩の山と呼んでも不思議ではないでしょう。近くにある有名な信夫山や信夫文知摺を一顧だにせず、この無名の地を詠んだ彼の心境は興味深いものがある。又ここ無名の塩松はあの有名な伊達政宗が1年間居城し 中世奥州覇者のスタートをきった所であることは意外と知られていない。道興がここを詠んだ丁度100年後の1585年 僅か18歳の青年正宗は塩松の領主大内定綱を破りここ小浜城を拠点に南奥の中心仙道(福島中通り)と会津を狙う拠点としたのである。所がその年の10月二本松城主名門畠山義継が和睦のお礼に正宗の父輝宗の居城宮森城を訪問の帰り 隙をついて輝宗を拉致して逃げ帰った。気づいた政宗は阿武隈川の義継の領地まであと1km手前の高田原(粟の須)で追いつき義継を討ち取ったが同時に父輝宗も失ったのである。かって奥州探題だった名門奥州畠山家はここに滅亡した。翌年伊達軍の僅か7千は会津の大大名葦名 常陸の名門佐竹 白川 須賀川の二階堂 岩城 相馬の連合軍3万を仙道本宮の人取橋の合戦で破り奥州の覇者となるきっかけをつかんだのである。後世この戦いを織田信長が世に出る戦となった桶狭間(織田信長2千が今川義元2万を破る)に因み奥州の桶狭間とも、又奥州の勢力構図の転換となった奥州の関ヶ原の合戦とも呼ばれる所以である。このように阿武隈山中にある無名の塩の松が歴史の転換の地になるだろう事を知らずに道興はその100年前に「しおの山」とまるで予言したように詠んだのは不思議な縁ではある。確かにここから太平洋は十里 凡そ40km位東のところである
(平成15年1月24日)
(参考 回国雑記の研究 武蔵野書院 岩代町史 小浜町史 二本松市史 畠山重忠 葛g川弘文堂
          塩の山       

左端下 
粟の巣古戦場の碑 銃撃を迷う政宗に父輝宗は攻撃を命じここで義継によって刺殺され義継自身も腹十文字に切って自害した

左下
 市長名による畠山義継主従陣没の碑 右畠山義継生害の地の碑 流石に輝宗の事は一言も無い 二本松でも 須賀川でも政宗の人気は余り無い 歴史と地元の評価が分かれる地である

 落ちぶれたとは言え奥州探題230年の名門であり11代城主畠山義継が僅か18歳の心身気鋭の伊達政宗によって奥州畠山はここに滅亡した 小さな戦だが歴史上大きなターニングポイントの戦いであった 義継家臣23名と従者50余名が全員悲劇的最後をとげた地です

四本松城祉の碑
 
塩松の由来となったという四本松城(しおのまつじょう)跡 1065年八幡太郎義家家臣 伴助兼が四隅に4本の松を植えたというが今その面影は無く人影もない 孟宗竹ばかりである そこに立てば何故1000年も前にこの山中に?と思うほど辺鄙な所にある