拉致された父輝宗を殺害した義継を正宗は彼を切り刻んだあと藤蔓で縫い合わせ小浜の町の西念寺入り口小浜川のたもとの木につるして晒し者にしたよ云う ここに名門奥州探題に二本松畠山家は滅亡した |
左下 思へば坂東八平氏の一つ秩父氏だが後に鎌倉幕府成立の立役者となる畠山重忠の流れである 重忠は坂東武者の鑑とも言われる人物で誠実・やさしく・思いやり深く・気が優しくて力持ちで一の谷のヒヨドリ越え坂落しでは馬を労り担いで下りたエピソードの持ち主 又頼朝の奥州征伐では泰衡家臣由利八郎の尋問では横柄な梶原景時に対して「貴殿は畠山殿か 殊に礼儀正しく先ほどのけしからぬ奴とは大違い それでは申しあげましょう・・・・」と言わしめた 格式の高い畠山氏は後に奥州探題として多賀城に下るが観応の乱で同じく探題の吉良・斯波連合に破れ二本松に落延びたのです
下 畠山義継の首塚 伊達郡川俣町鶏足山頭陀寺にある 頭陀寺は皮肉にも政宗の曾祖祖父伊達植宗公創建で当時の住職青牛禅師がみかねてこの寺に葬った 勿論無名の石だが右にはどなたかが詠んだ歌碑がある 頭陀は勿論頭陀袋からきてる 尚累代の墓は二本松市内弥念寺にある
右 大河内備中節婦塚 別名かっか石 かっかはかあちゃんの事でしょう 他にも大河内宗四郎の腹切石や備中の側室の稚児の墓など石橋家内の四天王と呼ばれた大河内備中氏と大内備前・石川弾正・寺坂信濃との激しい内紛があったようだ
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塩の山
其の2
左下 奥州探題宇都宮氏廣創園 伊達輝宗遺愛御花畑跡とある
右 東和町針道にある小手森城祉 所でこの大内定綱は政宗に追われて會津へ逃亡したが知行 ・給米は与えられず「餓死の体」の様だったようで再度政宗に奉公願い出たかと思うと➡ |
右 大内定綱は妻子まで連れて米沢に滞在し伊達氏に忠誠を誓いながら葦名氏や畠山氏しにも秋波を送る裏切りに、18歳の青年政宗は小浜城の北の守りの小手森城を攻撃し城内の婦女子を含む1000名を始め犬.・猫・鶏に到る生とし生けるもの総てを「撫で斬り」にして世を震撼させ政宗の戦国大名の登場をアピールした所である
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