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古来白河の関を越える時は 冠を正し衣装を改めて先人に礼を尽くしたと云う
卯の花を かざしに関の 晴着かな
曾良の句は 我々には正装の用意が無いから丁度道端に咲いている卯の花をかんざしにして晴着代わりにしよう と詠んでいる これはすでに平安末期の歌人藤原清輔の歌学書 袋草紙 にその由来がのっているのである
(おくの細道 講談社)
この事はすでに古代末期以降いかに白河の関が単なる関以上の影響を日本人の心に与えている証左であろうと思はれる
左 追分明神脇にある陸奥白河国境の碑
左下 県道75号線の旗宿道の国境にある追分明神(女神・玉津島神社)
下 延喜式内社白河神社 第13代成務天皇5年(135)白河国造命と天太玉命を奉祀し勅命により鎮座する 後に関の南北に住吉神社と玉津島明神を祀る離れてはいるが追分明神と併せて関の標としての二所の関としたのかも知れない 現在国技の大相撲二所の関部屋の発祥の地 毎年8月には二所の関部屋古式相撲が奉納される |
白河神社境内にある平兼盛・能因法師・梶原景季三歌人の碑 ことに兼盛は百人一首に
忍ぶれど 色に出にけり 我が恋は
ものや思ふと 人の問ふまで がある |
白河の関の高いブランドのため全く見落とされているのがこの一丁({町)仏と伝承される石碑(右端)である 有名な平泉藤原清衡によって白河の関から青森外が浜までの奥大道に一丁毎に黄金の笠卒塔婆を建てたと吾妻鑑に書いてあるが梵字(キリーク)で阿弥陀如来と彫られた右端の石がその白河の関の卒塔婆と言われている 然し福島市宮代一丁田にある一丁仏といわれる石は六角柱で高さ1.5m位のに比べて自然石では余りにも貧弱である まして名高い白河の関で陸奥第一号の笠卒塔婆なのにである 真ん中の石碑は享和2年(1802}建立の白河藩校立教館教授広瀬典による解説書で末尾三行に「・・・銘に曰く陵谷変遷、誰か古関を辨ぜんや、古関琳琅屹として建つ、捜索して恨みなし、若しもって疑となさば此の断碑を視よ」とある このちっぽけな石に黄金の平泉や青森外が浜までの壮大な歴史ロマンがある事を誰が想像出来るでしょうか |