お寺の多い白河で異彩は県指定重要文化財白河ハリストス教会 日本で5番目に古い1914年建造のロシア正教教会  
 宗祇戻しの歌碑田舎小娘の機転のきいた歌の返答に宗祇は陸奥の風流に驚きすごすご引き返したと言う 

鹿島神社の連歌興行の為白河へ来たとき綿を背負った女の子に出会い『売るか?』と問うと女の子は
 
阿武隈の 川瀬に住める 鮎にこそ 
  うるかといへる わたはありけり
 
と答えたという  
 
 小原庄助の墓碑 皇徳寺
 
左 羅漢山人の墓  山人は谷文晁の高弟で無類の酒好き 徳久利と盃を逆さにした碑が会津塗師久五郎の墓石で通称小原庄助とはこの人である 山人に絵付けを習いに来ていて安政5年この地で没す 戒名は米汁呑了信士 辞世の句は 朝によし 昼になほよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし
道標  右 たなくら 左 いしかわ とある
奥の芭蕉の句碑 

早苗にも 我色黒き 日数哉 
と一緒に建っている
 
 安珍生誕の地碑 白河市萱根字根田
僧安珍は大変な美形だった 一目ぼれした清姫は和歌山県中辺路町という
 
小峰城三重櫓 小峰城は南北朝時代に結城氏により築城された 小峰が岡の名に由来するが後に寛永年間に流浪の藩主丹羽長重公により5年の歳月を費やし修築された 独特の石積みと複雑な縄張りに特徴がある代表的平山城である 奥州の要として七家21人の城主をいただき戊辰戦争(1868)の戦火で焼失するまでの役240年間奥州の関門としての城郭は同心半円形と云う珍しい石組の美しさで往時の威容を忍ばせる 石垣と云えば築城中石垣が度々崩れるので老若男女の区別なく最初に通った人物を人柱とすることにした 偶然通りかかったのが現場で働く父親に弁当を届けに来た『おとめ」と云う娘だったという 今も城内にはおとめ桜にその名をとどめている
左  清姫押しかけ参上の碑
 皆さんご存知の安珍清姫のお話は能(道成寺)・長唄(女男道成寺等)・義太夫(日高川)・歌舞伎(京鹿子娘道場寺)等でお馴染みだ
  醍醐天皇928年(延長6年)奥州白河から美男の僧安珍が熊野参詣の途中紀国牟婁(むろ)郡真砂の庄清次宅に止宿した 彼に一目惚れした清姫は女だてらに大胆にも夜這いをかけ迫ったのです 安珍は参拝中の身だから今夜は駄目 帰りに必ず寄るからと約束しながら寄らずに帰路についた 騙された事を知った清姫は怒り狂い裸足で追跡し上野の里で追いついた 安珍は他人の空似だと下手な嘘を重ねた為清姫は怒り怒髪を天を衝きついに蛇身に化け安珍を追跡した 安珍は日高川を渡り道成寺に逃げ込み梵鐘を下ろしてもらい其の中に隠れたが清姫は許さず火を吐きながら梵鐘に巻き付き遂に安珍を焼死させた と云うストーリーだ あの昭和11年に起きた安倍定事件にも共通する物語は男女の性(さが)は時代を問わず不変である証でしょう 
 延長6年から1500年を記念して紀州から150人もの有志が特別列車清姫号をしたてて訪れ道成寺の住職が仲人となって二人を結ばせた記念の碑だ 清姫は念願かなったが安珍ははたして迷惑だたのでは?

    白河の関 其の5
  
 
安珍像が安置されている安珍堂
安珍像は元々紀州道成寺に保存されていたが昭和60年新幹線の上野乗り入れを記念して生誕の地に里帰りされたもの 3月27日が安珍忌で県無形民俗文化財の安珍念仏踊りが奉納される