芭蕉の奥の細道の一節と曾良の句が彫られている句碑   関山登山口
  詣ふてくる 人をそのまま この寺に しばし留めて 関のたけかな  関山登山口   蝙蝠が翼を広げた姿に似ていると言う関山 その山頂に天平9(737)年聖武天皇の勅願により行基によって創建された由緒ある満願寺 山号は成就山といいまことにおめでたい古刹 勿論芭蕉も登る
右上下 関山の麓に市指定史跡の和泉式部舊跡の碑には驚いた
  和泉式部の庵跡に建つ碑 この隣に化粧の井戸がある 市の史蹟案内板には彼女が石川郡生まれとあるが伝説の域は出ない    上 飯豊媛神社
白河の関ブランドに隠れて見落とすのが和銅6年(713)元明天皇の詔により諸国が献上した風土記の中で常陸国風土記がありその逸文にある飯豊媛神社である 僅か数十mの小山飯豊山に伊勢の皇太神宮外宮の祭神豊岡姫命をまつる。石には延喜式飯土用姫神社とあり部落の名も飯土用と地名の由来にもなっているのがいい

棚倉町八槻都々古別神社別当大膳院に奇蹟的に残されていた常陸風土記に『陸奥の國の風土記に曰く、白川の郡 飯豊山 此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆには)なり。又、飯豊青尊、物部臣をして、御幣(みてぐら)を奉らしめたまひき。故(かれ)、山の名となす。古老(ふるおきな)の曰(い)へらく、昔、巻向(まきむく)の珠城(たまき)の宮に御宇(あめのしたらしろ)しめしし天皇(すめらぎ)の二十七年、戊午(つちのえうま)のとし、秋((とし)飢饉(う)ゑて、人民(たみ)多く亡(う)せき。故(かれ)、宇恵々山(うゑゑやま)と云ひき。後、名を改めて豊田と云ひ、又飯豊と云う。』とあり真に白河から久慈川の官道常陸道沿いは古代史のロマンに溢れている
左 和泉式部の和歌
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 
    今ひとたびの あふこともがな

黒髪の 乱れも知らず うち臥せば
      まず掻きやりし 人ぞ恋しき

          共に後拾遺和歌集

    
 
前9年役で白河の関を越えた頼義・義家親子の東夷征伐戦勝祈願で萬願寺に奉納した下馬の碑  満願寺への関山の中腹にある 尚山頂には義経が治承4年(1180)に参詣して神馬を奉納した神馬堂跡の立て札がる 兄弟で参詣するほどの寺なのだ
上左端  芭蕉の碑
     関山登山口
心もとなき日数を数へて白川の関にかかりて旅心さだまりぬ 
と芭蕉の奥の細道の一文と曾良の  卯の花を かざして関の 晴れ着かな の句が彫られている 芭蕉はここを左折して関山に登るのだが江戸から200kmも歩いた上更に標高618mをスタスタ登る往時の人々の健脚振りには全く驚くばかりです 

白河の関 其の6

   国指定重要美術品萬願寺銅鐘  昭和19年7月6日に指定される 寛文4年(1664)白川城主本多下野守藤原朝臣忠平により寄進された それにしても鍋釜から寺の鐘まで供出させれた時期に国の文化財に指定されるとは相当な貴重品なのでしょう