庄司戻しの櫻の碑 |
国道294号線沿いにある戊辰戦争西軍大垣潘酒井元之丞戦死の跡 進み出て 績を尽くした この神の いまは偲びて たつる石文 と云う妹かつの歌が彫られている |
会津藩士田辺軍次の墓
左端 庄司戻しの桜の碑 白河関の手前旗宿にある 平家打倒に頼朝挙兵を知った佐藤基治は息子忠信。忠継を義経へ差し向けた ここ白河の関まで送り届けたのです |
慶応4年(1868)奥州街道が突き当たる市内9番町の西端にある戊辰戦争白河口の激戦地に東西両軍の戦死者の碑がある この戦で西郷頼母・横山主悦等率いる会津・仙台・棚倉軍は薩摩・大垣の大軍に破れ小峰城は焼失した 道の南側に長州・薩摩軍各三名の墓碑で北側には会津潘戦死者墓碑と会津藩主松平容保公の題字による銷魂碑 このように白河の関は古代陸奥蝦夷防衛から近代奥羽の防衛の拠点だったのです
左 田辺軍次の墓 会津潘士田辺軍次は戊辰の役白河口の戦いで会津が敗れたのは当時白河縣から白坂町取締りに任じられた大平八郎が官軍の道案内したためであると信じその遺恨を晴らすために何と青森下北半島斗南潘から凡そ一ヶ月をかけてここ白河にたどり着き白坂宿鶴屋にて八郎を斬殺し自らも屠腹して果てたのです 享年僅か21歳と言う若さです その遺骸は義父の仇にも拘わらず八郎の養子直之助により白河観音寺葬られたが後年会津会によりここ古戦場跡に改葬されたのです 平和ボケと金銭欲だけの現代では信じられない維新・戊辰戦争の悲劇でしょう 150年前の日本の若者はこなにも純真だったのです |