陸奥の とつなの橋に くるつなの 絶へずも人に いひ渡るかな         千載和歌集 前参議親隆朝臣
東路や とつなの橋も うちはえて 幾重の雪の 下にくつらん               壬二集 藤原家隆
東路の とつなの橋の くるしとも おもひしらてや 世をわたるらむ          拾遺和歌集 藤原 宗遠

陸奥の名湯飯坂温泉のPRには欠かせない橋である。鮎と河鹿で知られた摺上川をはさみ東の湯野と西の飯坂をむすぶ渡しである。平安の頃この渡しには十本の藤蔓で編んだ吊橋が架けられていたという。とずなの十は籐(とう)から来ているのかも知れない。1182年(文治5年)俵藤太秀郷の流れをくむ湯の庄司大鳥城主佐藤基治は、平泉追討に燃える鎌倉勢東山道本隊の源頼朝を迎え撃つに際し、この橋を自らの手で切り落とし福島の南部にある石那坂の合戦に赴いたというのだ。勿論西日本で20年にわたり平家と戦ってきた鎌倉の敵ではなかった。畠山重忠と伊達政宗の祖となる常陸の入道念西(藤原朝宗 後の伊達朝宗)に破れその首があの阿津賀志山に晒されたという。その後数百年間は両岸に綱を張り舟をたぐる いわゆる「とつなの渡し」に頼ったと観光案内板には記されている。その後明治6年木橋が懸けられ摺上橋と銘名されたのは文治以来700年振りの事である。明治8年十条の鉄線による優雅な釣り橋に代えられ十綱橋と名つけられ そして大正4年には老朽化のため当時としては珍しいドイツ式の工法によるアーチ式鉄橋が木曽川の木曽橋と共に完成し現在に至るのだ。だからその橋は今鉄骨のアーチとイルミネーションで飾られ昔日の藤蔓の面影は微塵も無く芭蕉の像が不釣合いにたたずんでいる。(平成14年2月15日)(参考 飯坂温泉史跡案内) 

 十綱橋


摺上川にかかる十綱橋と旅館群
情熱の歌人与謝野晶子が夫与謝野鉄寛と明治44年(1911)にここ飯坂温泉に来遊した 晶子33歳の時である その時詠んだのが
飯坂の はりがね橋に 雫する
         あづまの山の 水色の風
はりがね橋とは十綱橋の事です

平成21年に橋の手摺がリニューアルされその時名物であった放物線状に並んだ白い数十個の街灯も無くなってしまった




           十綱の渡し

  
左 頼朝奥征伐陸奥の古戦場石名坂古戦場 東北新幹線と福島市街 佐藤基治居城大鳥城は遥か正面山裾にある

謀反人義経隠匿を口実に平泉藤原泰衡討伐へ文治5年(1189年)7月28万の大軍を3軍に分け比企能員・宇佐美実政等を北陸道へ、千葉常胤・八田友家等を浜街道へ、そして本体源頼朝率いる17万の軍は奥大道(奥州街道)を進撃した 阿津樫山の合戦の前哨戦がここ石名坂の合戦なのである  この戦で戦功を挙げたのが常陸入道念西(藤原朝宗)と4人息子達である 迎え撃つ平泉の忠臣佐藤基治の獅子奮迅の奮戦を打ち破りその鳩首を挙げたのである 其の功績により念西は伊達一郡を与えられ伊達朝宗を名乗り初代伊達氏となったのである(伊達政宗は17代目) 素人の私が見ても地形的に見下ろせる位置にあった鎌倉軍に有利に見える 然し秀衡が遺言したように義経を総大将にして戦いを実践していたら陸奥の歴史も変わったかもしれない 暗愚なリーダーを持った陸奥の不幸であろうか