佐藤家菩提寺瑠璃山医王寺本堂 天長3年(826)に弘法大師作の薬師如来を勧請し草庵を建てた事に始まると伝える  下左 忠臣佐藤継信 忠信の墓 我子の戦死を悲しむ母乙和のために継信の妻楓・忠信の妻初音は武者の鎧姿で夫の凱旋の報告して母を慰めたと言う 今白石斎川の甲冑堂にその勇ましい像が残されている 下右 父佐藤基治 母乙和の墓
 医王寺参道 杉並木
 十綱の渡し
其の2

  




いしぶみは
千とせの海に
くつるとも
 人の誠よ
いかでくつべき

老中
松平定信
(栞)
湯の庄 佐藤基治一族
十綱の渡し
のある飯坂大鳥城は佐藤一族の本拠地で その信夫の庄司佐藤基治は 別名湯の庄司といわれていた
平 将門を平定した俵藤太秀郷の流れを汲み西行(佐藤憲清)とは親戚筋にあたる。基治の悲劇は勿論これも親戚に当たる平泉藤原氏の南の砦として奥大道(奥州街道)を攻め上る鎌倉頼朝軍本隊と福島南部石那坂の緒戦で破れその首が厚樫山に晒されただけで無く すでに其の前に息子2人も 平家打倒のため義経のもとに出陣しいた兄継信が四国屋島の合戦で平家の能登守教経が射た矢を義経の身代わりとなって受け戦死 弟忠信は頼朝に追われる義経を逃すため京都堀河の舘で変装し身代わりとなって戦死した。その菩提寺が飯坂にある医王寺で、芭蕉もここに立ち寄り
笈も太刀も 五月にかざれ 紙のぼり 
と詠んでいる
 佐藤一族のルーツを探るi飯坂温泉観光協会 寺栞)   
 
 芭蕉句碑  笈も太刀も 五月にかざれ 紙のぼ 上左 境内にある左から忠信・義経・継信の主従の像  上右 境内にある乙和の椿 大木の椿だが花も咲かず蕾のまま散ると言う 継信・忠信を失った乙和の深い悲しみと母情が乗り移った様に花が開かず蕾のままに散ってしまう事からいつしか乙和の椿と呼ばれる
ふみわけて む可しをとへば 夕時雨  つゆけき苔に 跡こそ見へける
なきたまよ ものひかわす ものならば  同じ心の すかたなるむ