陸奥のやまの郡といふ所にて 冬の月
雲はれて 空に見かける 月影を やまの郡と いひなおとしそ
            重之集  源 重之
       このやまの郡に鹿の子まだらに雪消え残る
秋来れば なくや小鹿の まだら雪 山のさおにか 鳴くこゑもせぬ         重之集   源 重之

この山ばかりの耶麻郡が何故歌枕の地なのか、ピン!とくる人は少ないでしょう。然し会津嶺、会津の海、慧日寺と言えば万葉の時代から都人には知られていたのです。この所在地は全て耶麻の郡内にあるから、耶麻の郡も教養ある都の噂にのぼっても不思議ではないでしょう。なかでも会津嶺(磐梯山)は会津では一番高く(1819m)、明治時代の大爆発が無ければ、完全なる神奈備山の神体山で、2000mはあったと思われる。其の為古くから信仰の対象となり、栞によると其の成り立ちは、250年応神天皇の御世神功皇后摂政の時、武内宿禰大臣の陸奥巡視の折、磐椅山の山頂に磐梯神社を鎮座されたのが始まりとか。さらに天平元年(729年)に現在地に遷座されたと言う恐ろしく超古い神社なのだ。そんな由緒ある会津嶺の麓に大同2年(807)堕落した奈良仏教を離れた徳一大師が、会津の教養と仏教文化の土台となる慧日寺を開基したのである。弱冠20歳で奈良仏教(旧仏教・小乗仏教)の知的豪傑が都会派新仏教(平安仏教・大乗仏教)の超大物最澄・空海と12年に及ぶ書簡による仏性論争は苛烈を極めたと言う。雛の陸奥に初めて高度な精神文化を移入した人物として特筆される。その恵日寺は最盛期には寺僧300、僧兵3000、寺領18万石、子院3800坊 会津4郡に及ぶ支配権をもち、その堂塔伽藍は壮観を極めたと言う。現在其の面影はないが国指定の史跡として深い杉の森の中に往時の痕跡をとどめている。このように見てくると耶麻の郡とは当時物凄いエリヤで、文化と信仰と教養の発信地で大和の国中に知られていたと思われるのだ。現在の耶麻郡が裏磐梯とスキー場と云うレジャーで若者の関心を集めるのとは大分そのイメージが違うのである。国道49号線を通るときこんな目で磐梯山を見るとこの山ばかりの耶麻郡も一目置くに十分と思われる。
(平成14年5月9日)(参考 会津若松市史  街道をゆく33会津・白河のみち 朝日文芸文庫)

下左 磐梯山慧日寺の仁王門 下右 恵日寺金堂
 左 平将門の三女瀧夜叉姫の墓碑 恵日寺 享和年(1082)建立 恵日寺門前にある  平将門の三女滝姫墓と言う いわき市四倉恵日寺や秋田県田沢町中生保内神社にも滝姫伝説がり墓碑あるという 詳細はそちらに譲るとしても陸奥奥深くまで将門伝承が息づいてるのは将門のクーデター(天慶の乱 天慶2年・949)衝撃の大きさを物語っているのです 下 旧本坊で現在恵日寺 山門は平将門の寄進と云う 
現在の門は江戸中期のもの手前の門が中門 後ろが金堂 初期には中門・金堂・講堂・食堂と南北に並んでいた 現在講堂・食堂は礎石だけで往時をしのばせる

耶麻の郡