あつさ弓 八槻の里の 桜かり 花にひかれて をくる春かな         廻国雑記 聖護院 道興准后 
倉町八槻は今も神の領域である。いやここだけでなく福島県南部の東白川郡から茨城県北部久慈郡までが、未だ々古代神話の国なのである。古代神話を多少かじってから眺めると実に其の雰囲気が漂う地域なのだ。ここの貴重なエリアを神話の領域として積極的に保存すべきではなかろうか。それもこれも南北朝時代からの熊野参詣職を務めた修験者の宮司八槻家(八槻都々古別神社別当大膳院)に偶然にも残されていた陸奥国風土記逸文のおかげである(別当八槻家栞)。上の歌は文明19年(1487年)室町時代修験道を統括した京都聖護院の僧 道興が東北行脚の折 八槻家に一泊した時詠んだものである。 この別当八槻家の由緒は半端でないらしい。そしてその逸文の八槻の謂れが又リアルなのです。景行天皇の御世、息子の日本武尊が東(あずま)の蝦夷を征伐してこの地に来た。そして八目の鳴鏑(飛んでいる時高い音を立てる道具)の矢で賊を射殺した。そしてその矢が落ちた所を矢着と言う。そこには正倉(みやけ)もあった。神亀三年には字は八槻と改めた。また古老が言うにはこの地に8人の土蜘蛛がいた。その名も黒鷲、神衣媛、草野灰、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱、狭礒名と言い皆要害の地に住みお上の命にも順はない。そして征伐に来た磐城の国造が敗れ百姓を侵し掠めて止まない。天皇は日本武尊を使わし征討した。だが8人の土蜘蛛も津軽の蝦夷に援軍を依頼し猪鹿弓・猪鹿矢を石城に連ね張りて射るので官軍も立ち往生した。そこで日本武尊も槻弓 槻矢執り執たして8本の矢を次々と放すと雷鳴の様な唸りを挙げて蝦夷の輩を追い退けたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻の木となった。そこでこの地を八槻の郷という。神衣媛と神石萱とその子孫は許されて今綾戸と言う。ざっとこんな調子の内容である。さらに真しやかなのが現いわき市西北部の三和町に上市萱と下市萱なる字があるが蝦夷神石萱末裔の地の名残と言う。  ところで気になるのが人をしてこの土蜘蛛という表現だ。実に当時の中央政府の蝦夷に対する極端な蔑視の表れと見てとれるのである。今も残る東北蔑視の原点ではなかろうか。さてこの神の領域を通る道は白河から水戸までの国道118号線である。その表郷村の道路沿いに建矛山(武矛山 都々古山)というのがある。わずか標高90mの円錐の神体山なのだがこの山こそ古代東北で最古 最大の祭祀遺跡である事が学術的に証明されたのである。そしてその山頂に日本武尊が東征の折に土着の神をこの都々古山に御鉾を建てて祭祀したのが都々古別神社の始まりなのだという。神話と学術が極めて接近しているすごい山なのである。そしてこの神社が3社もあるのだ。棚倉町馬場(上の宮) 同じく八槻(中の宮) 大子町の近津(下の宮)である。これら3社とも陸奥一の宮に相応しい素晴らしい雰囲気を持っているのである。
 その魅力の第一は神社の森の神秘さだ。馬場の神社は凡そ7000坪に樹齢1000年の杉がざらにあるのである。それが自然な姿でバイパスの脇にあるのです。また八槻の神社は国道が丸で森の真中にに吸い込まれるように感じるのだ。それほど素晴らしい大木 古木が深いのです。下の宮も樹齢1300年の天然記念物の鉾杉や戦勝祈願義家の松等、現在ではほとんど見ることが出来ない大木が身近な生活の隣に息ずいているのだ。久慈川沿いは勿論山国だが其の中でこの3社の森は一際抜きん出ているのである。神々が住む森なのです。
  (平成14年6月10日)(参考 別当八槻家栞 福島県の歴史 白河市史 たなぐら史談抄 ヨークベニマル  表郷村史 表郷村)
左端 八槻都々古和気神社別当大膳院八槻家 八槻家は代々八槻都々古別神社の宮司を務める家柄 石背白川(現福島県白河市)から常陸依上保(現茨城県大子町)に至る広い範囲の修験を統括していた 江戸中期に建てられた寄棟・萱葺・母屋・土蔵が現存し伝わる文書242点は中世のこの地方の歴史・文化を伝える貴重な思慮として県指定文化財になっている  美人の宮司さん姉妹は前にある白亜の2階建ての鉄筋コンクリートの家に住んでるようですよ  左 八溝山頂登山口 ここから車で山頂まで行けます 
 八槻  
上 左延喜式内社従5位下勲十等八溝山黄金神社 茨城県久慈郡大子町
八溝山頂の 麓にある近津神社の下野宮に対して上野宮と呼ばれる この八溝山から古代砂金採が採取されたと云う
山頂は常陸 毛野 陸奥の三国の境界にある由緒ある神社である 由緒が又仰々しいい 景行天皇40年日本武尊が創祀・聖武天皇時代に伝教大師が社建立・延暦年間坂上田村麻呂布陣・ 大同年間弘法大師が神殿修理・仁寿年間慈覚大師が社殿修復などでる 
上右 八溝神社石碑
県道28号線の傍らにあった八溝神社嶺の碑 神徳其盛乎 国威輝四海と彫られていて帝国日本の国威発揚を願って神社に奉納したのでしょう 

    
 別当八槻家は代々八槻都々古別神社の宮司を勤める由緒ある家柄でその祖先は南北朝まで遡る 裏付ける資料として准后道興の短冊のほか 天福2年(1234年)鎌倉時代の国重要文化財木面十一面観音立像や県重文で応永3年(1370年室町時代の文書御檀那名寄事 など他にも多数の文化財を(有)している 御覧の八槻家住宅は由緒に相応しく 2ヘクタールに及ぶ敷地に土塁・空濠・水濠巡らせ中世の面影を残す江戸時代建築の書院造りで武家屋敷の様式を持ち玄関は入母屋造りになっいて江戸時代の住宅が現存しているのはここのみだそうだ その祖先は熊野参詣の先達職を務めた家柄で修験道の歴史上でも大変貴重なものだそうです 現在の宮司さんは女性でいかにも古代卑弥呼のように政の巫女的存在のようで面白い 偶然神社でその宮司さんの姉妹にお目にかかれたので厚かましくもお写真をお願いしたが今出かけるところと言う事で丁重に断られたのは残念でした 白装束の若い美人の宮司さんでした