第二の魅力はこの喧騒の世の中でこの3社の静けさである。それぞれ数千坪の森だから静かなのは当たり前だがこれだけの由緒 由来を持てば御多分に漏れず観光の餌食になるところだがその気配が全く無いのである。何処かの有名神社の様にけばけばしい色、看板、観光客目当てのお土産屋 食堂が全く無い。ただ普通の人家が神社と同居しているのである。神と人とが調和しているのだ。兎に角総てが静かなのである。1人でいると実に哲学的になり 人間のちっぽけさと自然と時間の偉大さを感じないわけには行かないのである。この素晴らしい偉大な財産にこれまた地元の方は全く無欲なのがいい。たまたま八槻の神社にいた老人が話すには 「大雨が降ると畑から今でも矢じりが出てくるんだ。石の矢じりが。大昔はこの辺りで相当大きな戦争があったんべな」と話していた。いかにも《矢着》きらしく実に古代が自然なのだ。神社で金儲けをしようとする不埒な人がいないのがすがすがしい。古代の陸奥は総てがこの森の いやこの数倍密度の濃い森の国だったに違いない。  第三の魅力は この幸運な神の領域に 久慈川 八溝山 建鉾山 があったことだ。先ずこの久慈川がなければ人はこの地に足は踏み込めなかったとおもわれるのです。日本武尊を始め古代の東征軍が足を踏み込むのにこの神社の数倍の密度の森林バリヤーを超えるのは困難と思えるのだ。先ず川からのぼり始めるほうが先が見えるだけ楽である事が実感できる。然も岩盤なので歩きやすそうだ。この川がなければ神々もやって来れなかっただろう。次に八溝山(1022)である。この山の頂上は福島県(陸奥) 栃木県(毛野) 茨城県(常陸)の県境になっている。ここも神の山で頂上に八溝嶺神社がある。ここが大子町にある近津神社(下の宮)に対する上の宮なのであるが、ここから見る景色は抜群で北関東の平野がこの三県の境をして風景が一変しているのだ。八溝山系 那須山系の山々により仕切られた陸奥の森は一段と深く、また標高も高くなり蝦夷の豊穣の地そのものである。所謂征夷大将軍紀古佐美の云う《水陸万頃の地》が実感できる。八溝山こそ蝦夷と大和朝廷の国境線であると思えるのである。そして最後には前に述べたあの建鉾山である。何の変哲も無い僅か90mの山が陸奥神話の出発の地なのだ。凡そ1900余年前 日本武尊が東奥鎮撫の際関東奥羽の味耜(すき)高彦根命を地主神としてこの小山(都々古山 建鉾山 武矛山)に鉾を立て祭祀したのが総ての始まり(都々古和気神社栞)なのである。そして学術的にも古代祭祀場であったことが遺跡から立証された山なのである。(大場巌雄 亀井正道両博士)(都都子和気神社栞) 大同2年(807)坂上田村麻呂が現棚倉町に社殿を奉造し日本武尊を相殿に配祀した。都都古和気神社の始まりだ。然し考えて見ると この神社に関る日本武尊 坂上田村麻呂 源 義家らの歴史のスター達は、陸奥の蝦夷征伐の代表者であることに皮肉を感じないわけにはいかない。蝦夷からみれば侵略者としてのの3人なのだ。それを陸奥蝦夷の後裔が参拝するのは少し違和感が無い訳ではないのだが、それを割引いても価値ある神々の地である。
建鉾山 東からの画像
    三森都々和気神社
上建鉾山
 この正三角形の小山(都々古山)こそ正に神々が降り立つに相応しい神奈備山なのです 然も一見穏かな外見だが一旦山頂に上がると一際目立つ巨石・岩石に覆われた山頂なのです 所謂神々が降り立つ磐座(いわくら)に全く相応しいのです これこそ信仰の対象としてもってこいの山だったのです 日本武尊が征夷のおり土着の神々を山頂に御鉾を立てて祭祀したのが始まりと伝えその日本武尊を合祀したのが坂上田村麻呂と云う 手前の畑からは昔から耕作や整地により多量の石製模造品が採掘されたのです 
左端 建鉾山 西からの画像
石柱には日本武尊 御親祭霊域 武矛山高木登山口と彫られている
 
 三森都々和気神社
表郷村三森にある三森口入口にある都々和気神社入り口 この前に古代の官道の常陸道が通る その前に住んでる農家の方の話では建物を建てる工事の時には土地が陥没した事が有った云う 石で囲まれた部屋のようになっていたと言う 若い頃は穴の空いた石があちこちで見つけたという 真に古代の魅力が溢れる地域なのです 三森は大和國の三諸山(三輪山)の訛ったものではないかと云う
 八槻 其の2  
       
左 祭壇遺跡 高木登山口にある案内板にあった出土した遺物の写真である