二本松少年隊の碑 會津白虎隊とともに戊辰戦争が生んだ僅か12才から17才の純粋にして可憐な少年隊の14名の悲惨な墓石である 徳川に恩義を感じていた丹羽家は會津とは別の意味で薩長の犠牲になったのである
 
読み方
(なんじ)の俸 爾の禄は
民の膏
(こう) 民の脂(あぶら)なり
下民
(かみん)は虐げ易きも
上天
(じょうてん)は欺き難し
意味
お前がお上から戴く俸禄は
人民の汗と脂の結晶である
下々の人民は虐げ易いけれども
神を二本松少年隊の碑 會津白虎隊とともに戊辰戦争が生んだ僅か12才から17才の純粋にして可憐な少年隊の14名の悲惨な墓石である 徳川に恩義を感じていた丹羽家は會津とは別の意味で薩長の犠牲になったのである欺く事は出来ない
つまり現代風に言えば
お前達公務員の給料は
国民の汗と脂で納めた税金である
この気持ちを忘れ国民を搾取したら
きっと天罰が来るぞ

  とでも訳せるでしょうか
左 戒石銘  二本松潘丹羽10万石の城の東側に潘庁があり潘士達の通用門ある 其の前に露出した花崗岩の自然石(長さ8・5m 幅5・0m)の大石に刻まれたのがである 五代藩主丹羽高寛公儒学者岩井田 昨非の進言により潘士の戒めとするため命じて刻ませた この戒石銘が後の二本松潘士士風を奮い立たせ明治の戊辰戦争では潘の子弟達が二本松少年隊として西軍に対して奮戦力闘の末士道に殉じ又多くの重臣達が城を枕に自刃して果てたのもこの戒石銘が精神的支柱となったからであろう よって昭和10年には教育及び行政職の規範として極めて価値が高いものとして国指定史跡に指定された  然し残念ながらこの四句十六文字の箴言は決して彼のオリジナルではないのです その原典は中国五代時代後蜀の君主孟昶の作った「戒論辞」の24句96文字の長い詩の中から4句だけを抜粋したものなのです(参考 戒石銘 二本松市)

畠山氏 1340年北朝方の奥州探題として畠山高国公を初代城主とする二本松畠山家はその後11代義継公が伊達正宗との戦いで討死し凡そ240年の幕閉じた その次男が長じて二本松氏を名乗り畠山22代二本松錠氏が昭和8年墓所を改装して粟の須の戦いで義継公と運命を共にした23名の家臣の霊を祀った 延命寺にある
丹羽氏  ご承知の通りあの豊臣秀吉柴田勝家丹羽長秀の苗字の一文字づつ戴いて羽柴とした程織田信長の重臣であた 長秀は信長の異母兄の織田信広の娘を娶り織田家の一族に加わり織田を取立て大名の筆頭として柴田勝家と共に宿老的存在であった 彼は天文20年(1551)の海津表合戦から天正11年の賎ヶ岳の合戦の間の各戦功により120万石の大大名に成長したが天正14年81568)には其の大部分が没収されているのです(色々な事情があったのでしょう) 然し大阪冬の陣・夏の陣では豊臣方についたが前田利家や藤當高虎の口利きや織田家の名門として慶長8年(1603)常陸古渡1万石の大名に取り立てられた その後元和5年(1619)福島棚倉5万石・寛永4年(1627)白河10万石・寛永20年(1643)二本松10万石城主となり明治まで存続するのである 栄枯盛衰は世の常としても変幻流転そのものの丹羽家である その家紋も×印(直違紋)と云う変わった家紋であるのも面白い 丹羽家中興の祖は丹羽長秀で創業の祖は丹羽長重である そして二本松初代藩主は丹羽光重で長次ー長之ー秀延ー高寛ー高庸ー長貴ー長祥ー長富ー長国{十代目)となる 長国は明治37年1月15日に没してる(参考 二本松市史 二本松市) 

  初代丹羽光重の墓碑  丹羽家菩提寺大隣寺
 二本松藩主として初代だが有名な戦国大名丹羽長秀は家康により一時流浪の民となった二代長重を加味すると三代目になる 大隣寺には光重から9代長富公までの墓石が立っている 石灯籠には丹羽家の家紋である違棒(ちがいぼう・)が総てに彫られている 



安達太良山 其の3

 特異な陰暮なる墓石もある 徳川幕府に人質に取られた大名の正室と嫡男は江戸住まいとなり地元では御国御前と呼ばれた側室の子供が藩主を継承する場合がある その時藩主は生母の墓石に名前を彫る事が許されず無名の墓石となり陰ながら弔うため陰暮と呼ばれる 封建社会の参勤交代が生んだ悲しい墓石でしょう
 
日本の道100選に選ばれた旧奥州街道   昭和61年