左 二本松少年隊  城内
僅か14歳の少年が敵長州藩隊長白井小四郎を突き殺し本人もこの場所で絶命したと書いてある 

会津白虎隊に隠れ其の知名度は無いが二本松少年隊60余名の戊辰の役の悲劇の地だ 白虎隊が16〜17歳が中心だが二本松少年隊は12歳〜13歳も多いのがいっそうの涙を誘う 城の前にその像が立っている(左下) 特に有名なのが木村銃太郎指揮下の20名少年隊でその年齢構成は12才1名・13才6名・14才2名・15才4名・16歳3名・17歳4名と未だあどけない少年たちだった 現在の日本を見るにこの年代の少年のみならず青年・壮年を見ても日本人の劣化はもはや明白です
下 二本松城(霞城)
安達太良山の麓二本松市は南北朝時代奥州探題畠山氏に遡り伊達政宗に滅ぼされたあと蒲生氏 上杉氏と代わり 1643年(寛永年間)丹羽長秀の孫光重が白河から入府した 丹羽氏はあの秀吉が丹羽氏と柴田氏から一字づつもらい羽柴と名乗った程の織田信長の重臣である事は周知の通りである

国指定史跡戒石銘
 霞城内  今でも行政の規範として又教育上類例のない重要な史跡として高く評価されている  だから二本松では節分の豆まきでは『鬼は外(おにはそと・ お丹羽外) 福は内』とは言わず『鬼は内 福も内』と言います
 
 
奥州探題畠山家墓所

安達太良山 其の2