上 国重要文化財笠間稲荷神社御本殿
左上下 笠間神社参道・拝殿 祭神は宇迦之御魂神で宇迦は食物を意味し「稲に宿る神秘的な精霊」を表してるという五穀・食物を司る神と云う 創建は第36代孝徳天皇の御代の白雉2年と伝える
浅野長政長男幸長と共に関ヶ原合戦で徳川秀忠の指揮下に入り戦火を挙げた 幸長は和歌山城主となり慶長11年(1606)浅野長政が隠居領として真壁・筑波の2郡を拝領して真壁藩が成立した 長政死後3男長重が真壁藩を相続しその後江戸幕府への手柄・尽力が大きかったので真壁を含む笠間城5万3千石に転封された 然し長重は45歳で没した後次代の真壁藩主藩主長直が正保2年(1645)播州赤穂に転封され初代赤穂浅野家となった 時代は長友・長矩と続いたがその浅野内匠頭長矩が元禄14年3月14日吉良上野介を松の廊下での刃傷事件をお越し切腹させられた➡   ➡その後御承知の赤穂浪士の元禄15年12月14日の討ち入りとなったのである 所謂後の忠臣蔵もこの笠間からの連続であたのには初めて知った 討ち入り浪士の中には笠間藩時代に仕えた者や真壁郡出身の子孫も含まれていたようだ 
左 本丸東端部にある笠間城址碑 城の由来が彫られている
13世紀前半に宇都宮氏の一族・笠間晴朝が築城した。1590年、笠間氏が小田原攻めで北条氏に味方したため滅ぼされ宇都宮氏の城となる。しかし1597年、宇都宮氏が改易となりその後は蒲生氏・浅野氏などが城主となり、1747年に牧野氏が入って明治維新を迎えている。 石垣・曲輪・堀など遺構が残っている  この碑の脇に隅櫓のある城跡にいけるが時間の関係で行けなかった


右   大石内蔵助像
左上 笠間城主下屋敷跡の碑
藩主長直によって天守の下方に造られたのでこの名がある ここに笠間藩の役所と藩主の居宅を兼ねた御殿があった 以後明治4年の廃藩置県まで230年余の間藩役所となった 

この笠間市に大石内蔵助の像がある理由はここが一時浅野家藩主の城下であった事から納得できました そのほかにもネットによればこの公園内には内蔵助の屋敷跡などもあるようだが中々見つけられなかった