許我の渡 古河は又古我に作り、万葉集に夙く痲久良我の許我の渡と詠み、元は渡津の名なるべし。今の中田の渡津にあたるも、古の渡津は、此にて専渡良瀬川を越えたるにて利根川を越えたるにて、利根川来会せざりしと云へば、其形勢に於ひて古今大差ありと知るべし道興、回国雑記に云、古川といふ所に舟にのりて
  こがくれて 浮かべる秋の 一葉ぶね さそふ嵐を 川をさにして
  
河舟を こがの渡りの 夕波に さしてむかひの 里やとはまし
古我の渡は万葉集に痲久良我の許我とよめり、痲久良我と云ふも地名にて、此津はもと痲久良我の邑内なりけむ。されど郡郷の系属を詳にせず。
  痲久良我の 許我の渡の から梶の 音高しもな 寝なへ子故に                         万葉集巻9-3555
  あはずして 行かは惜ししけむ 痲久良我の 許我こぐ舟に 君も逢はぬかも                 万葉集巻9-3558
  白妙の 衣の袖を 痲久良我よ 海人こぎ来見ゆ 浪たつなゆめ                         万葉集巻14-3449
  霧深き 許我の渡の 渡守り 岸の舟方 思ふ定めに                                 続古今和歌集
鳥喰の里 鴻巣の南、中田の北にして沼沢に臨めり。其西は利根、渡良瀬の交会にあたり、新井本郷、新川新田等と相対す、沼地をカハウソ沼と名づく。文明十八年回国雑記に「鳥はみと云へる所を過ぎ行けるに、日暮れ侍れければ
  さそはれて 我もやどりに 急ぐなり 帰へる夕べの とりはみの里                     回国雑記 道興准后
とあるは此処とす。 古河の渡の近地なれば鳥喰を経て佐野(安蘇郡)は巡回せらりしなり。
                                                                       大日本地名辞典 富山房

 巻9-3558の万葉歌碑   古河駅前  
説明板にある現代語訳には
あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの古河の渡し舟であなたにお逢いできないものかなァ 
と書いてあった 痲久良我は古河にかかる枕詞である 古河の渡しは渡良瀬川にあった渡しであるようだ
 左 巻9-13555の万葉歌碑
渡良瀬川河畔堤防の雀宮神社境内 説明板にある現代語訳では


まくらがの古河の渡し舟の韓棹(からかじ)の音が高いように高い噂がたってしまたなァ  あの子と共寝したわけでもないのに

とありました 万葉の歌も現代の演歌も1300年の時を経ても人間の感情には全く変化がないのには驚きます 男女の深層は不変です