上 三国橋から見た渡良瀬川 三国橋辺りが許我渡りか
下 渡良瀬川遊水地
右上 頼政神社 渡良瀬川東岸 三国橋近くの古河城郭の土塁に鎮座してる 勿論祭神は源三位頼政であるが他に従者猪 早太・渡辺 競である この二人が彼の遺言に従ってここに葬ったとある 元々は古河城内立崎郭内の頼政の首塚といわれる古墳上にあったが渡良瀬川河川改修工事のため現在地に移転したものでその際社殿の土中から高さ90cmの沈牡丹模様の朝鮮青磁の甕に納めた遺骨が出土したという
彼は摂津源氏一門の中心武将で保元の乱では後白河陣営に走り清盛・源義朝等と共に崇徳陣営の源為義親子等と敵対し勝利に貢献したが恩賞はなかったが70歳を超えてから従三位に叙せられ武門源氏始まって以来の公卿に昇進した 彼を公卿にしたのは清盛で安徳天皇誕生によるご祝儀昇進で破天荒・第一の珍事と称されたサプライズであった➡ |
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古河公方とは
室町幕府の足利尊氏は嫡男義詮を京都将軍職とし次男基氏を関東を統治させるため鎌倉府の首長となり代々上杉氏がその補佐役を務めていた 前者を関東管領職で後者が関東執事職である 義詮と基氏は仲良しだったが三代将軍義満と二代管領氏満・三代管領満兼の時代になると将軍職を巡り険悪な時代に入ることになる 関東管領足利氏は将軍家に擬を唱えて鎌倉公方と称するようなりそれにならって何時しか上杉執事職が関東管領を名乗るようになったのです 鎌倉公方4代持氏の時代になると明確に京都幕府に反抗し幕府方についた関東管領上杉憲実とも対立し敗れ幕府の命により自害させられた その後持氏の遺児成氏が鎌倉公方を名乗るが幕府方の上杉氏や今川氏により鎌倉を追われて下総のここ古河の地逃れてきた ここから古河公方と呼ばれることなる また成氏に対抗するため幕府から派遣された足利政知も伊豆の堀越に御所を定めたので堀越公方と呼ばれ鎌倉公方は消滅した 尚福島県には笹川御所・稲村御所を置いた(参考 HPグレゴリウス講座)
左上下 最後の古河公方第5代足利義宇氏墳墓のほか氏女(うじひめ徳源院)とその息子氏親の石塔もある 近所のお婆ちゃんが案内してくれた 徳源院跡と呼ばれている 尚公方舘跡の近くには国重要文化財の飛田家住宅がる |