右 県指定史跡 水野越前守忠邦の墓 結城市山川新田 万松寺跡
水野忠邦(1794〜1851)は天保12年(1842)11代将軍徳川家斉の死後老中首座となり江戸時代の三大改革の一つ天保の改革を主導した人物 辞世の歌が墓の側面にある
くみてこそ むかしもしのべ ゆく川の かえらぬ水に うかぶ月影
上 初代水野忠元から十一代水野忠邦までの墓
水野家は三河の国知多半島勢力勢力を持ち刈谷城主水野忠政の娘於大が岡崎城主松平広忠に嫁ぎこの於大が後の徳川家康となる竹千代を生んだのです 忠元の父は忠政の子忠守であるここ山川の忠元から始まる系統を山川水野家と称する 初代忠元から忠善・忠春・忠盈・忠之・忠輝・忠辰・忠任・忠光・忠鼎・忠邦の墓がある |
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