茨城の郡。[東は香島郡、南は佐礼流海(されのうみ)、西は筑波山、北は那珂郡なり。] 古老曰へらく、「昔、国巣(くず)(俗の語に つちくも といふ。又 やつかはぎ とも云ふ。)、山の佐伯、野の佐伯ありき。普く土窟(つちむろ)を置(ま)け掘りて、常に穴に居む。有る人来れば、窟に入りて竄(かく)る。其の人去れば、更(また)郊(の)に出でて、遊(めぐ)る。狼の性、梟の情(こころ)にして、鼠のごとく窺ひて掠(かす)め盗み、招(をき慰(こしら)へらゆること無く、弥(いよよ)、風俗(てぶり)を阻(へだ)てたり。此の時に、大臣の族(うがら)黒坂命、出で遊れる時を伺候ひて、茨蕀(うばら)を穴の内に施き、即ち騎兵(うまのりのいくさ)を縦(はな)ちて、急(にはか)に遂(お)ひ迫めしむ。佐伯等、常の如く土窟に走り帰り、尽(ことごと)に茨蕀に繋(かか)りて、衝き害疾(そこな)はえて死に散(あら)く。故、茨蕀を取りて、県の名に着けき」といへり。[謂はゆる茨城郡は、今、那珂郡の西に在り、古者(いにしえ)に家(みやけ)を置けるは、即ち茨城の郡の内なり。風俗(くにびと)の諺に、(水依る茨城の国)と云う。或いは曰はく、「山の佐伯、野の佐伯、自ら賊の長と為り、徒衆(ともがら)を引率いて、国の中を横しまに行き、太(おお)きに掠め殺しき。時に、黒坂命、此の賊(あた)を規(はか)り滅さむとして、茨を以ちて城を造りき。所以(このゆえ)に、(くに)の名を便(すなは)ち茨城と謂ふ」と云う。・・・郡より西南に、近く河間(かは)有り。信築(しづく)の河と謂ふ。源は筑波の山より出でて、西より東に流れ、郡の中を経歴(へめぐ)りて、高浜の海に入る            
                                         (常陸国風土記 且R川出版社)
    
恋瀬川 
志筑川と云ひ、上流には高友川とも云ふ。古風土記に、信筑之川と云ふも、是に外ならず。筑波嶺の東なる、柿岡盆地の諸水、湊りて之を成す。其遠源は、大増山に在り、南に下り、高友、高岡、を過ぎ、片野に至り、小幡月岡より来る者(小桜川)を合せ、鬼越山、志筑山の間を東に流れて、盆地を出て去り、石岡の南を流れ、荒張川を容れ、高浜に達し、霞浦に入る。長凡七里。又恋瀬とは国府瀬の訛にて、此川を市川とも呼べるにて推断すべし。佐渡国の府辺に恋浦あり、伊賀国の府中に恋湊あり。相対比すべし。
  水の上の 泡ときえなば 恋瀬川 流れて物は 思はざらまし        新拾遺集
筑波山名勝跡志伝、筑波の東麓三里許に、恋瀬川と云ふ流れあり、続後拾遺集に
  恋瀬川 浮名を流す 水上は 袖にたまらぬ 涙なりけり          大江正国女
此川も、筑波山の雫より起こり末は舟筏の通ふ流れとなる、山南の桜川と同じく、霞浦へ流れ入る。
高浜 石岡の東南一里、霞浦の湖頭に居り、恋瀬川此に来り、湖中に帰す。此地は、国府の近郊にて、往時は殊に佳麗の名ありし由、風土記茨城郡家の条に初見あり、中津川とは又恋瀬の一名也。
  多賀波痲に きよする浪の 沖つ浪 寄すともよらじ 子等にしよらば
  多賀波痲の したかぜさやぐ 妹を恋ひ 妻といはばや しことめしとも
桜川 筑波川、又伊佐々川とも云ふ、新治那珂郡(今東茨城郡)の仏頂山に発し、西流して岩瀬駅を経、南に転じて真壁郡に入り、その西偏を過ぎ、筑波山の西麓を遶り、筑波郡へ入り、漸く東南に進み、土浦に至り霞浦の大湖に入る。
  渡りきて 末たどたどし 筑波川 いさゝの橋に かゝる夕暮れ   回国雑記 道興准后
  秋の色に うつろひきても 桜川 紅葉に波の 花をそへつゝ    回国雑記 道興准后
  桜川 瀬々の白波 しげければ 霞うながし 信太の浮島      詠み人知れず
                                   (大日本地名辞書 坂東 富山房)

            
              桜川