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[東は大海、南と西とは那珂の郡、北は多珂の郡と陸奥国との堺にある岳なり]。古老曰へらく、「郡より南に、近く小さき丘有り。体(かたち)、鯨鯢(くじら)に似れり。倭武天皇(日本武尊)、因りて久慈と名づけたまいき」といへり。・・・有らゆる清き河は、源、北の山に発(おこ)り、近く郡家の南を経て、久慈の河に会ふ。多く年魚(あゆ)を取る。大きさ、腕の如し。・・・高市と称(い)へるあり。此より東北二里に、蜜筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり。俗(くにひと)、大井といふ。洽(あまねく)く冬温かなり。湧き流れて川となる。夏の暑き時には、遠邇(をちこち)の郷里より酒と肴を齎?(もちき)て、男女会集(つど)ひて、休(いこ)ひ遊び飲み楽しぶ。其の東と南は海浜に臨む。(石決明・海胆・魚貝等の類、甚多し) 西と北とは山野を帯ぶ。(椎・櫟・榧・栗生ひ、鹿・猪住めり) 凡て海山の珍しき味(あじはひ)、悉(ことごと)に記すべからず。此より艮(ひむがしきた)卅里、助川駅家あり。昔は遭鹿(あふか)と号(なず)く。古老曰へらく、「倭武天皇、此に至りたまひし時に、皇后、参り遭ひたまひき。因りて名づき。宰久米太夫(みこともちくめのまへつきみ)の時に至りて、河に鮭を取らむと為て、改めて助と名づく。」といへり。(俗の語に、鮭の祖を謂いて すけ とす)。 常陸国に久慈理の丘と云ふ岳あり。其の岳の姿、鯨鯢に似たる故に、かく云へりと云々なり。俗語には鯨を謂いて「久慈理」と為すと云へり。 (常陸国風土記 且R川出版社)
助川 新誌云 今当国にて鮭の大なるをスケと云うことば伝わらず。奥州南部人に聞ける事あり。彼国辺鄙の俗、鮭の大なるをサケノスケと云ひ、鱒の大なるをマスノスケと云とぞ、東極の辺鄙なる故に返てよく古語を伝へたるものなり。
行く先を いそぐ旅路ぞ 舟子ども 真楫しじぬき 早わたさなん 朴翁 (大日本地名辞書 富山房)
蜜筑の大井(常陸風土記) 日立市水木町の泉が森は、天速玉姫命を祭神とする泉神社の杜でで、其の杜の一角に清冽な水が滾々と湧き出る泉がり、常陸国風土記久慈郡の条に、蜜筑の大井として次のように記録されている。『高市と称ふ所あり。此れより東北(うしとら)二里に蜜筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり。俗に大井と謂ふ。夏は冷に、冬は温し、湧き流れて川と成る。夏の暑き時、遠邇(おちこち)の郷里より、酒肴を持来りて、男女集会ひ、休遊び歓楽めり。』とある。蜜筑の里が現在の日立市水木町と其の名を残しているのは1300年の時間差を一気に縮めてくれる。 高市は(たけち)とは四方から人々が多く集まり賑わう所の意である。つまり古代のおおらかな男女交歓の歌垣の場で尽きることなく湧き出る蜜筑の大井は飲料水・灌漑用水として文字通り神聖視され、泉水はここに降った霊玉から湧き出るとされ、その玉が泉神社の御神体とされている。その御神体は速玉姫命で、速玉と云う言葉が清泉の美称と考えれば祭神は明らかに大井の神格化としての意義をもつ。泉神社は貞観8年(866)に従五位下の神階を与えられその八年後には従五位上に昇格し延喜式神名帳により久慈郡七座に加わり、日立地方では最も古くから知られた由緒ある神社である (日立文学散歩上・下 筑波書林)) |
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