①小貝が浜と二つ島  保護鳥ウミウ渡来地 ここより600m北東の伊師浜海岸は全国の鵜飼地にウミウを供給する国内唯一の捕獲地だ(県指定天然記念物)   常陸風土記遺構 ③会瀬の浦(遭鹿の浦)
 
日本武尊と妻の弟橘姫命が再会した海岸
 
常陸風土記遺構 茨城県指定文化財 泉が森  
日立市水木町
  此より東北二里に密筑の里あり 村の中に浄き泉あり 俗、大井といふ 洽く冬温かなり湧き流れて河と成る
 ②日立駅海岸口 明治30年(1897)2月25日に開通した常磐線日立駅は実は昭和14年(1939)までは助川駅の名称でした。比較的近年まで常陸風土記時代の地名であったです 駅の北を流れる現宮田川が古代助珂と呼ばれていた         
      久慈川 Ⅱ

郡の南卅里に藻島駅家あり 東南の浜にある碁の色珠玉の如し 謂はゆる常陸国に有らゆる麗しき碁子は唯是の浜にのみあり(常陸風土記多珂郡 山川出版社)藻島駅家は多珂八郷の一つに藻島郷があり東海道の現十王町伊師辺りにあった駅家である 昔日本武尊が舟に乗り海に浮かべて島の磯を御覧なられたら種々の海藻が多いに生い茂っていたので採取を禁じた 因りて名づけ今も藻島なのである 
②多珂郡 (東と南は並びに大海、西と北とは陸奥と常陸と二つの国の境にある高山なり)古老曰へらく「斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇の世に建御狭日命を以ちて多珂国造に任しき。茲の人初めて至り地体を歴り験て峰崇しと以為ひて因りて多珂の国と名づけき」といへり。建御狭日命遣さへし時に当りて久慈との堺にある助河を以て道前とし陸奥国石城郡の苦痲の村を道後としき(常陸風土記多珂郡 山川出版社)
此より艮卅里に助川の駅家あり 昔は遭鹿と号く 古老曰へらく「倭武天皇此に至りたまひし時に皇后参り遭ひたまいき 因りて名づく 宰久米大夫の時に至りて河に鮭を取らむと為て改めて助と名づく」といへり(俗の語に鮭の祖を謂ひて「すけ」とす)(常陸風土記久慈郡 山川出版社) 遭鹿は現相賀町として残りまた会瀬町として残っている
行く末の いざ白波の  伊ささ川 あふせの浦も 人はかけせず 宗祇
こぎ出づる 舟路涼しき 初秋に あふせの浦の 浪の朝風  中務親王
七夕の あふせの浦に 寄る浪の 寄るはすれど 立かへりつつ 中務親王
この辺りを七夕磯とも呼ばれ牽牛と織姫伝説があるが日本武尊と弟橘姫命の再会伝説から来てるかもしれない  
夏の暑き時は遠邇の郷里より酒と肴を持ちきて男女会集ひて休ひ遊び飲み楽しぶ(常陸風土記久慈郡 山川出版社)721年の奈良時代の元明天皇の詔によって作成された風土記ほど感動するものはありません 密筑の里が現日立市水木町として残り浄き泉や大井は写真の様に今でも実にきれいな水がこんこんと湧き出している 水温は年間を通して摂氏13度であり記述通り夏冷冬温なのです 隣りの泉神社も平安時代の延喜式明神帳に記載された由緒ある神社である 面白いのは酒や肴を持ち寄って男女が相集うおおらかな男女交歓・求愛が焚火程度の闇の中で行われていた事である(歌垣・嬥歌)筑波山の嬥歌は有名である 常緑樹のこんもりした泉が森と呼ばれている 水の透明感が素晴らしい