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常陸風土記曝井の碑
ここは水戸市唯一の万葉の遺跡なのです
この近くを常陸道が通り粟河(那珂川)の両岸に駅馬(河内駅馬)が置かれていた この流域の近くの水戸市渡里町長者山に那賀郡役所があったという (常陸風土記の世界築波書林)
今そしる 思ひ出でつつ さらし井の さらにも人は 戀しかりけり
新選和歌六帖
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左 曝井の碑 常陸風土記遺構 水戸市
この碑は明治11年(1878)当時の地主桜井安処が『曝井は常陸国の名所にして万葉集に詠歌あり 又風土記に記して詳らかなり 然るに千年久しきを歴て今は其の所を知るものはまれなり東湖藤田先生かつて余に謂へらく 子はその土地の地の主なれば石文を建て世人をして其処を永く忘れざらしめんことこそ本意ならめ』と先生の事葉のままに石文を建てたものである
中 万葉集歌碑
隣りの説明文には この曝井は常陸風土記の那賀の条に『坂の中に泉が湧き出て水量が多く清らかで夏には村の女達が布を洗って曝してた』と書いてある この辺一帯の台地からは各所に湧き水が見られるがここがその代表的な場所と云われている ここで曝された布は調として都へ納める為であったろう それは女の仕事であって夏の日に多くの女性が湧き水に集まって布を曝し水に戯れるが如き若やいだ姿態に虫麻呂は色気を感じて詠んだのだろう と書いてある 水戸西ライオンズクラブ 常陸万葉の会 昭和52年8月 |
那賀(珂)の郡。[東は大海、南は香島・茨城の郡、西は新治郡と下野国との堺にある大山、北は久慈郡なり。] 平津駅家(うまや)の西十二里に、岡有り。名を大櫛と曰ふ。上古(いにしえ)に人有り。体は極めて長大く、身は丘壟(おか)の上に居て、蜃(うむき)を手る。其の食ひし貝、積聚(つも)りて岡と成る。時の人、朽ちぬ義(こころ)によりて、今、大櫛の岡と謂ふ(水戸市大串貝塚) 其の踏みし跡は長さ卌余歩(あしあまり)広さ廾余歩(あしあまり)なり 尿の穴の径(わたり)廾余歩許(ばかり)なり 中略 郡より東北に粟河(現那珂川)を挟みて駅家(うまや)を置く 本、粟河に近ければ河内駅家と謂ひき 今も本の随(まにま)に名づく 其れより南に当たりて、泉、坂の中に出づる多(さは)に流れて尤(いと)清く、曝井と謂ふ 泉に縁(よ)りて居める村落(むら)の婦女、夏の月に会集(つど)ひて、布を浣(あら)ひ曝し乾(ほ)せり。 (常陸国風土記 ㈱山川出版社)
曝井 題詞に那賀郡の曝井の歌一首とある歌で高橋虫麻呂の作とされといます。「三栗の」は、栗のイガの中に実が三つ入っている真ん中の意味から「那賀」にかかる枕詞です。曝は衣を洗いさらす事で井は泉・井戸の意から固有名詞化した所といわれています。歌の意味は「那珂河に向かい合っている曝井の水が絶えず湧き出るように、私も絶えず通いたいものだ、そこに妻がいれば」 となります。歌の舞台そのものは、大きくいえば、当時那賀郡(那珂)に属していた現在の水戸市とする見方が有力です。(常陽芸文 万葉集ひたちの歌 常陽芸文センター) 高橋虫麻呂は藤原宇合が常陸守として下向した折、下遼として一緒に赴任して常陸風土記の編纂にも参加したようだ 万葉集には34首が入集している |