筑波の郡[東は茨城郡、南は河内郡、西は毛野河、北は筑波岳なり。]古老曰へらく、「筑波の県は、古に、紀国と謂ひき。美万貴天皇(みまきのすめらみことの世に、采女臣の友属(ともがら)、筑簟命(つくはのみこと)を紀国の国造に遣しき。時に、筑簟命云はく、『我が名をば国に着けて、後の世に流伝(つた)へしめむと欲(おも)ふ』といひて、即ち本の名を改めて、更に筑波と称(い)ひき」といへり。風俗の説に握飯筑波国(にぎりいひつくばのくに)と云ふ。・・・夫れ、筑波岳は高く雲に秀で、最頂(いただき)の西の峰は崢エ(さが)しく、雄神と謂ひて登臨(のぼ)らしめず。但し、東の峰は四方に磐石ありて、昇り降るに决?(さが)しけれども、其の側に流るる泉は、冬も夏も絶えず、坂より東の諸国の男も女も、春は花の開く時に、秋は葉(このは)の黄(もみ)つ節に相携ひ駢?(つらな)り、飲食(をしもの)もちきて、騎(うま)より歩(かち)より登臨りて、遊楽(たのし)び栖遅(いこ)ふ。其の唱(うた)に曰く
    筑波峰に 逢はむと言ひし子は 誰が言聞けばか 峰逢はずけむ
    筑波峰に 廬りて 妻無しに 我が寝む夜ろは 早も 明けぬかも

と云う。詠ふ歌甚だ多にして、載車(の)するに勝(た)へず。俗(くにひと)の諺に云はく、「筑波峰の会に、娉(つまどひ)の財(たから)を得ずあれば、児。女と為(せ)ず」といふ。郡の西十里に、騰波の江在り。(長さ二千九百歩、広さ千五百歩なり)。 東は筑波の郡、南は毛野河、西と北とは並に新治郡、艮(ひむがしきた)は白壁郡なり。(常陸国風土記 且R川出版社)
筑波山 
筑波名跡志云、此筑波の神山は、二並に峙ち、おのづから陰陽の形勢あり、田植え謳にも「あれ見さへ、筑波の山の横雲を、雲の下こそ、我等が元の親里よ」と、関東の百姓、久し世より、諷来れり、昔は男女此山に詣で来、相互にめなしどちの如くとつぐ也。是をかがいの祭りと云ふ、万葉集に、
 
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率いて 未通女壮士の 行き集い かがふ?歌(かが  い)に 人妻に 吾も交はらむ あが妻に 他も言問へ この山は 領く神の 昔より禁めぬ行事ぞ 今日の  みは めぐしもな見ぞ 言も咎むな 
云々。 万葉集巻九-1759
今毎年六月中旬、当山男女の児童等、歌舞狂言して、神慰の祭を行ふ、上古の事実を弁へざれど、是も自然かがひの余風なるべし。
   
 吾が面の 忘れもしだは 筑波嶺を ふり放け見つつ 妹ほ偲はね   万葉集巻20-4267
 筑波根の このもかのもに 陰はあれど 君が御影に、ますかげはなし
       古今集
 筑波山  葉山繁山 しげきをぞ たがこもかよふ したにかよへ 我妻はしたに 風俗常陸歌
男女川 今男体、女体の間、南へ降る渓流を、美那之川と呼ぶ、歌名所なり。末は大貫村にて、桜川へ注入す、長一里余。 
 
筑波禰の 岩もとどろに おつる水 世にもたゆらに 吾おもはなくに       万葉集
 筑波根の 紅葉うつろふ 男女川 渕より深き 秋の色かは       
廻国雑記 道興准后
 男女川 峰より落つる 桜花 にほいの渕の えやはせかるる      
拾遺愚集 藤原定家
 筑波根の 峰の桜や 男女川 流れて渕と ちりつもるらむ       
続古今和歌集 雅有
郡郷考云、風土記に、筑波岳、東峰、四方磐石、昇降決屹、其側流泉冬夏不絶とあるは、やがて美那之川の源にて、末は筑波川に入る。木曽路図会云、女体の山間に、白雲の滝あり、男体の山中にも滝あり、是等の滝を、美那の川と云ひ、二神の霊泉なれば多く恋の歌に詠む。此流れは、二神の杜地に出れば、男女の川と名づくるとぞ。(大日本地名辞書 富山房)