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・・・郡の東二・三里(さと)に、高松の浜あり。大海の流し差す砂と貝と、積もりて高き丘と成る。松の林自らに生ひ、椎・柴交雑(まじり)り、既に山野の如し。東西の松の下に出泉あり。八九歩(あし)ばかり、清く渟りて、太(はなは)だ好し。慶運元年に、国司、采女朝臣、鍛佐備大麻呂(かぬちさびのおおまろ)等を率て、若松浜の鉄を採りて、剣を造りき。此処より南のかた、軽野の里の若松の浜に至る間の卅余里ばかり、此は皆松山なり。伏苓神(まつほど)を年毎に掘る。其の若松の浦は、即ち、常陸と下総と二つの国の堺にあり。安是の湖の有らゆる沙鉄は、剣を造るに大(はなは)だ利(と)し。然れども、香島の神山とれば、輙(たやす)く入りて松を伐り鉄を穿ること得ず。・・・・・軽野より東の大海の浜辺に、流れ着きし大船あり。長さ十五丈、濶(ひろ)さ一丈余なり。朽ち摧(くず)れて砂に埋もり。今に猶遺れり。淡海の世に、覓国(くにま)ぎに遣わさむとして、陸奥国の石城船造に令せてーーを作らしめき。此に至りて岸に着き、即ち破れきと謂ふ。(常陸国風土記 且R川出版社)
軽野(苅野)の橋(里) 下の歌は題詞と注から、高橋虫麻呂が鹿島郡の刈野の橋で大伴卿と別れた時のもの、と云う事がが分っています。刈野は常陸風土記や和名抄の郷名に軽野とある地で、現在の鹿島郡神栖町の南部とされているが橋の位置は不明です。
牡牛の 三宅の浦に さい向ふ 鹿島の崎に さ丹塗の 小舟を設け 玉纏の 小梶繁貫き 夕潮の 満のととみに 御船子を 率ひ立てて 呼び立てて 御船出でなば 浜も狭に 後れ並み居て 反側び恋ひかも居らむ 足摩し 哭のみや泣かむ 海上 のその津を 指して 君が漕ぎ行ば 万葉集巻9-1780
反歌 海つ路の 和ぎなむ時も 渡らなむ 斯く立つ波に 船出すべしや 万葉集巻9-1781
あわでの浦 未詳 八雲御抄では常陸国とある 日本文学史蹟辞典・日本文学地名辞典(共に遊子館)では鉾田市の鹿島灘に比定している。 (大日本地名辞書 坂東 富山房)(常陽芸文 万葉集ひたちの歌 財団法人常陽芸文センター) |
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