行方の郡。[東・南は並びに流海(うみ)、北は茨城郡なり。] 古老曰へらく、「難波長柄豊前大宮馭字天皇(なにはのながらのとよさきのおほみやにあめのしたをさめたまひしすめらみこと)の世、癸丑の年に、茨城国造、小乙下壬生連麻呂、那珂国造、大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)等、惣領高向大夫(たかむこのまへつきみ)・中臣幡織田大夫(はとりだのまへつきみ)等に講ひて、茨城の地の八里を割き七百余戸を合わせて、別(こと)に郡家を置けり。」といへり。行方郷と称ふ所以は、倭武天皇、天の下を巡狩(めぐり)でまして、海の北を征平(たいら)げたまひき。是に当りて、此の国を経過ぎ、即ち槻野の清水に頓幸(いでま)し、水に臨みて手を洗ひ、玉を以ちて井を尊びたまひき。今も行方の里の中に存りて、玉清水と謂ふ。更に車駕(きょうが)を廻らして、現(うつ)原の丘に幸(いでま)して、御膳(みけつもの)を供奉(つかへまつり)りき。時に、天皇、四を望みたまひて、侍従を顧みて曰りたまはく、「輿を停めて徘徊(たもとほ)り、目を挙げて騁望(のぞみみ)れば、山の阿(くま)、海の曲(わだ)は、参差(まじは)り委蛇(もこよ)へり。峰の頭には雲を浮かべ、谿(たに)の腹には霧を擁く。物の色可怜(おもしろ)く、郷体甚愛(くにかたちいとうるわ)し。宣(うべ)、此の国の名を行細国(なみくはしくに)と称ふべし」とのりたまふ。後の世に、跡を追ひて、猶、行方と号(なず)く。風俗に立雨零(ふ)る行方の国と云うふ。(常陸国風土記 ㈱山川出版社)
霞浦 常陸国南偏の大沢にして、鹿島郡の北浦、浪逆浦の西に隣るを以て、方俗西浦ともいふ。其南には、利根の大江流れ、溝渠を以て相通ず。西辺は稲敷(古信太)、東辺は行方郡とす。之に帰湊する所の河水は小野川、谷原新川、桜川(筑波川)、恋瀬川(志筑川)、園部川等を以て大なりとす。面積十万里許、湖上の運送は牛堀を以て津口とし、高浜入に往来する者、日夜定期の輸船あり、土浦入、古渡入にも船便あれど、高浜往来を主要とす。大日本地名辞書 坂東 富山房
  佐保姫の しほ焼くあまと いつなりて 霞を浦の 名には立つらん  夫木和歌集   後九条内大臣
桜川河口と霞ケ浦  土浦市
霞ケ浦は茨城県南東部から千葉県北東部に広がる湖沼で湖沼水質保全特別処置法指定湖沼である 西浦・北浦・外浪逆浦・北利根川・鰐川・常陸川の各水域の総体である
 日本第2の湖沼で茨城県面積の35%を占める
 霞ケ浦湖畔乗浜で偶然見つけた親子の地蔵 遥かに筑波山を望むように
霞ケ浦