姉歯の橋  朽ちぬらん 姉歯の橋も あさなあさな 浦かぜ吹きて 寒き浜辺に      能因法師集 能因   姉歯の橋
全長47kmの気仙川が間もなく高田松原の西端に注ぐ手前に架かる 左が気仙町右が高田町 10世紀にここ迄能因がやってきたとは脅威である 用明天皇(586〜587)の御世高田の長者の姉が都へ釆女として上京の折 宮城県栗原郡金成で亡くなった 代わりに妹が上京する途中金成で松を植え霊を弔ったところが姉歯の松と言う 高田では人の旅立ちの際はこの橋まで見送る習わしで姉妹に因んで姉歯の橋と言うとか

昭和7年1月建立 如何にも戦前の頑丈さ一点張りの橋  美女釆女の姉妹に似合わず無骨である
この橋は「岩手の湘南」とも言われる陸前高田市で広田湾に注ぐ気仙川に架かっている。紛らわしいのは宮城県栗原郡金成町にある有名な歌枕「姉歯の松」がありその近くにも姉歯の橋なる小川にかかる小さな橋(橋と言っても殆ど気付く人はいないが)がある。陸前高田市史には「姉妹高田より出たりと言う。能因の歌海浜近き橋を詠せる時は疑らくは今の今泉川に渡せる橋ならんか。今泉川昔より寛永の頃までは高田村の中を流れて海に注ぎけると言へり。人の旅立ちをば橋辺りまで送る事なれば 彼の姉が都への首途彼の橋まで送て柳條を綰ねたりしを後に姉歯の名に因みて其の橋をも斯く称せしや」とある。今泉川は現気仙川である。所で気仙と言えば大船渡市の開業医山浦玄嗣氏がその特殊な発音と語彙からケセン語大辞典を出版された。単なる方言集ではなく実に学術的でA4版上下合わせて3000頁に及ぶ大作なのだ。同じ東北弁でも更に特殊な東北弁らしいのだが見るだけではその特殊性は判り難い。やはりヒヤリングでないと面白味に欠けるのである。この先生東京生まれだが4歳のとき気仙郡越喜来(おっきらい)と言う如何にも気仙語らしい村に移住したと言う奇特な方なのだ。話はそれたが気仙と言う特異な地名は和名抄には「介世(けせ)」と記されている。日本後記には「弘仁元年(810年)10月27日に渡島(北海道)から狄200人余りが気仙郡に上陸した。と陸奥国衙から朝廷に報告があった。国衙では所管外として即刻帰るよう促したが、狄は冬の海は越えるのが困難として春まで置いてくれないかと延期を要望した。朝廷はこれを受け入れ春までの滞在を許可し衣と食料を与えるよう国衙に命じたと言う。」何とも生き生きした今と変わらぬ人間くさい出来事ではないでしょうか。古代がつい昨日のように身近なのです。更に前9年・後3年の役で忘れてならない重要人物がここ気仙にいるのです。金 為時と言う人物です。劣性の頼義・義家軍を助けたのが出羽清原氏でその功により鎮守府将軍に任ぜられたのは皆さん周知の事です。 所が同じ俘囚の長 金為時は殆ど知られていないが彼こそが真の勝利の黒幕なのである。金為時は気仙郡司として中央政府に忠実だったのだ。陸奥守頼義に説得され安倍頼良(後に改め頼時)の姻戚筋で青森で仁土呂志 宇曽利 鉤屋の俘囚の長であた安倍富忠を官軍の見方に引き入れたのだ。これに驚いた安倍頼時は2000の兵を引き連れ説得に向かったが途中待ち伏せに会い重症を負い帰郷後鳥海柵で死亡した。それでも劣性の源 頼義は今度は出羽の清原氏の説得工作に金為時と千葉常永(板東平氏平忠常の孫)を向かわせたと言うのだ。確たる史実はないがあれほど源頼義の説得を拒み続けていた清原氏がついに重い腰を挙げたのは金為時の影響しか考えられないと言うのだ。いかがでしょうこの金氏の系図によると安部兵庫之亟為雄気仙郡司の時金鉱山開発の功により「金」氏を賜ったという。為時はその6代後の人物なのです。今気仙には金野 今野 紺野が多いはその為で総て「金氏」の末裔なのです。「金氏」もそれ以前の姓は安倍氏であり蝦夷として頼時 貞任 宗任等とは遠い親戚筋になるのだろう。その証拠に河崎の柵の柵主金為行は貞任の叔父で為行と為時は兄弟と言う説もあるし最後の砦厨川戦いでは多数の「金氏」の姓の者が討ち死に 投降しているのです(師道・依方・則行・経永等)。この様にお人好しの陸奥蝦夷は生き馬の目を抜く関西武士団の甘言により結局分断され滅ぼされ、その後陸奥蝦夷の土地は頼朝の奥州征伐の論功行賞として幕府の御家人に津々浦々に配置され分け与えられたのである。この様に 魅力的歴史の気仙だが実際10世紀初頭気仙人金為時の説得時に関西人の源頼義との言葉が本当に通じたのだろうか?21世紀の今でも意味不明なのだから。今思うに真にユーモラスだったに違いない。
(平成16年7月29日)(参考 陸前高田市史 岩手県の地名 平凡社)