わが思ふ 人だに住まば 陸奥の 夷の里も うときものかは                     秋篠月清集 後京極摂政
  こさ吹かば 曇りもやせん 陸奥の 江曽には見せじ 秋の夜の月                         藻塩草

 

岩手県の奥州街道の宿駅は南から山目(一関)・前沢・水沢・金ケ崎・鬼柳・花巻・石鳥谷・郡山(紫波町)・盛岡・渋民・沼宮内・一戸・福岡(二戸)金田一の15箇所である。これを読み込んだ奥道中歌がある。
  噂する 人にくせ有 壁に耳 口の開けたて 一関なり
  山目で 酒呑んだゆえ 前沢を つい水沢と 通る旅先
  けふの日も はや入相の 金ケ崎 旅の疲れを 相去の関
  東路を 国のつつみに 鬼柳 みどりつきせぬ 千代の齢を
  紅の 色あらそふや 花巻の 石鳥谷より 見ゆる山畑
  ほととぎす 声はりあげて 郡山 卯の花咲ける 花の盛岡
等中々面白い宿駅の歌である。花巻市の北隣に稗貫郡石鳥谷町がある。その南部に江曽という地域があるが我々には余り馴染みがない。それよりすぐ其の隣にある県立花巻農業高等学校の方がずっと知名度も高い。何と言っても岩手が生んだ天才宮沢賢治が教鞭をとった学校だから。この江曽こそ蝦夷(エゾ)であり夷の里なのです。蝦夷(エミシ)の本願の地は水沢・江刺である。其の更に奥の花巻の豊沢川(遠胆沢川から来てると言う)越えた所にある。正に往時は夷の里である。然し江曽は蝦夷(エゾ)から来たのではなく絵像(エゾウ)から来たと言う説があるのです。昔強淵山長楽寺に阿弥陀如来の絵像が掛けてあった。村人は絵像長楽寺と呼んでいたと言う。この寺戦乱により2km程北部の黒沼に移ったが村人は元あった地を絵像と呼んだという。そこから絵像→江曽となった言うのである。直線の4号国道線上にある田園いっぱいの平凡な町であるが酒造りには欠かせない南部杜氏発祥の地なのである。所で夷の里の南隣の花巻市はご存知宮沢賢治の故郷です。賢治については皆さんご承知の通りです。彼は明治29年8月1日花巻町鍛治町の母の実家宮沢善治の家で生まれた。賢治の父宮沢政次郎の家は花巻町豊沢町にある。賢治は明治42年盛岡中学に入学したが蓄膿症のためか成績は中ぐらいであまりよくなかったらしい(88名中60番目)。でも盛岡高等農林学校農学科第2部(現岩手大学農学部)には首席で卒業している。卒論は「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」と中々堅物の彼らしく難問だ。
そんな堅物で一生独身の彼だがそれでも最初で最後の恋をしている。蓄膿症の手術のために入院した岩手病院の木村と言う看護婦さんにである。手術の経過が思わしく無く長期になったが度々検温のために日に何度か手首を握られ、さしもの彼もグニャグニャになったのです。
 
 十秒の 碧きひかりは 過ぎたれば 悲しくわれは 又窓を向く
  すこやかに 麗しき人よ 病みはてて わが目黄色に 狐ならずや

脈拍をとる十秒間だけの恋でしかなく木村看護婦はそれとは知らずビジネスライクに握るだけだった。退院した後も思いは募り彼女の家の廻りをうろついている。そして死の間際にまで「退院 いざや起ちてまことの恋に」と手帳にメモっているのです。終身悶々とする初恋でした。退院後店番していても失恋でボーとしていて無気力な賢治を見て両親は上級学校(盛岡高等農林学校)へ進学を勧めたのです。古今男の青春とは煩悶と同義語なのです。プレイボーイの啄木とはとても同郷とは思えない初恋でした。 と思いきやその後も調べてみると3人位の恋人がいたらしい。幼馴染の大畠ヤス子・日本赤十字社の澤田キヌ・宣教師の外国婦人と云うのです。福島民報新聞平成22年9月25日の新刊紹介解説の「読書」の蘭に面白い記事がありました「・・・賢治は後年、『禁欲は結局何にもなりませんでしたよ』と知人に語ったと云う。・・・丸いソフト帽に外套姿で、うつむいて農地に立につ賢治の肖像は我々が好く知るあの姿は、肥料の事なんかより、成就する事のない恋に悩んでいたのかも知れない」と。 なるほど余りに禁欲的な『雨ニモマケズ・・・』よりもその方が人間臭い賢治で我々には親しみやすいのです。
(平成17年7月16日 (参考文献 日本地名大辞典 角川書店 盛岡市史 宮澤賢治を旅する サライ7月号)
 夷の里は酒の里 南部杜氏は1678年{宝暦6年)近江商人村井権兵衛が攝津の池田から杜氏を招いたのが始まりと言う 北は北海道から南は四国高地県までの広範囲に酒造り儀重津集団として活躍していたと言う 其の最盛期にはここ石鳥谷には3000人もの杜氏が登録されていたが現在はここ南部杜氏協会の登録人数は800人程度だと係りの方は話していた 丹波杜氏 越後杜氏とともに日本3大杜氏である 民族資料館にある南部杜氏の歴史的酒造り用具が重要文化財として展示されていて見応えのある資材が並んでいるが撮影禁止と係員がついて歩くので撮影できなかったのは残念でした