左上下
江曾の一里塚

明暦4年(1658)南部道直により建立された県指定史蹟文化財である
江曽の一里塚
と右は明治天皇小休息所の
 江戸から132番目の江曾の一里塚


夷の里 
其の2

 






右 宮澤イチは宮澤政次郎と云う同姓の家に嫁いだ

右端 豊沢町の賢治の生家 母の嫁ぎ先 
 
宮澤家の墓地   身照寺境内  花巻市石神町 
右が宮澤家累代の墓 左が宮澤賢治の墓   彼が好んで描いた知恵の象徴梟の像も一緒に
ミネルバの梟は夕闇とともに飛び立つ』 って云う事かな
彼は熱心な法華経徒である 近くには縁のあるぎんどろ公園があるがここは元彼が教鞭を取った花巻農業高校の跡地である 風の又三郎の石像群や詩碑がたくさんある
上 酒造神松尾神社 花巻市石鳥谷町
熊野堂遺跡にある熊野神社境内にある 京都の松尾大社は延喜式内社で酒の神様として有名で南部杜氏全員連名でが京都からここ江曾の地に勧請した この神社の裏には表に松尾神社 裏に杜氏全員の名が掘られた石碑がる
上右 弘淵山長楽寺 花巻市石鳥谷町 
ここのご本尊の絵像からか はたまたアイヌの言葉イソン・コタン(豊穣なる土地)から来たとか江曽・エゾ・蝦夷由来は中々はっきりしないようだ
右 林長山光林寺 花巻市石鳥谷町
この寺の開基は稲瀬町のひじり塚に眠る伊予の国の河野水軍の国主河野通信公の長男で通の次男で稗貫郡太守寺林城主河野通重と伝えている 開山はその嫡男河野通次である 通次は京都在番で上洛中に従兄弟である一遍上人の説法に感動して帰依してた 翌弘安年3年春には一遍上人と同行して稲瀬町国見山に眠る祖父通信公の墓前にて転経念仏の供養した そして城主通重公夫妻も入信して領地2千町歩を寄進して六堂伽藍を建立して一遍上人導師のもと落慶法要を行た由緒あるお寺である(説明板)